阿吽33 『天鼓』について  粟谷明生

『天鼓』について  
―日本人によって創られた唐土の空想物語―
粟谷明生

 『天鼓』 シテ 粟谷明生(平成23 年10 月9日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店

『天鼓』 シテ 粟谷明生(平成23 年10 月9日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店

 

『天鼓』の初演は平成六年・粟谷能の会研究公演でした。今回の粟谷能の会の『天鼓』(平成二十三年十月九日 国立能楽堂)は十七年ぶりの再演ということになりました。

 

現行の喜多流の『天鼓』では「楽(がく=唐物の舞)」は太鼓なしが決まりです。これを、研究公演のときには「研究」という意味合いもあり、盤渉の太鼓入りで試演してみました。当時三十九歳でした。いま思うとよくもまあ冒険が出来たものだ、と自分ながら驚きますが、それは友枝昭世師や父菊生をはじめ流内や三役を含めた皆様のご理解とご協力の賜物であったと、今も感謝の気持ちで一杯です。

 

今回、『天鼓』を再演するにあたり、まず考えたことは、この「楽」のことです。前回同様、太鼓入りの盤渉で勤めることにしました。『天鼓』は太鼓が主題の曲ですので、黄鐘調でも盤渉調でも太鼓入りの楽であるのが相応しいと思います。わざわざ太鼓を入れないで囃す根拠が理解出来ません。喜多流の後シテは出端(では=出囃子)で登場するため『天鼓』には太鼓奏者が必須です。現在太鼓方は一時間四十分ほどかかる曲の十分程度の出端のためだけに舞台を勤めます。その他の時間はただただ座っているだけの環境です。これがなんとも勿体ない気がします。せめて盤渉の時ぐらいは太鼓が入るルールに代わると良いと思っていました。研究公演での反響はすこぶるよく、近頃は太鼓入り盤渉が頻繁に演じられるようになり、一石を投じてよかったと嬉しく思っています。

 

今回は更に「楽」の型(動き)に太鼓への思い入れが入った舞にしたいと工夫しました。通常「楽」は本舞台でしか舞いませんが、途中で橋掛りに行く替えの型を試演しました。舞の寸法は変えずに、橋掛りを漏水と見立て、キリの仕舞どころで謡われる「水に戯れ、波を穿ち、袖を返すや」を楽の中で表現出来たらよいのでは…、との思いです。

 

本舞台から三の松辺りまで、クツロギ(替の舞)に似た動きで、水に戯れる心持ちを左や右に小廻りで表現して、左袖を巻く型で愛用した鼓を遠くから眺めます。そして徐々に太鼓に近づく心持ちで一の松まで移動し、また小回りして太鼓に向かって歓喜の足拍子を踏む新工夫の型です。

 

天鼓少年と鼓との繋がりを、楽という形式化された舞の中で表現したい、少年自身が楽しくてたまらない、そしてより舞台が華やかに見えるように演出したいと仕組んだつもりですが、いかがでしたでしょうか。

 

今回は「楽」のほかに、あと二つのことを心掛けました。異国(唐土)の物語であることを判りやすくすることと、前場のシテの登場を呼び出し形式にすることです。

 

能『天鼓』は中国のお話ですので、当然能役者の扮装は中国風が相応しいはずですが、現場はそうなっていないのが事実です。現行の喜多流の装束は日本を題材にした曲目と同じです。これでは観る側にいくら中国の話であると説明しても想像し難いでしょう。舞台全体が中国であると思える工夫があって然るべきです。今回はシテだけでなくワキもアイにも中国人らしい装束を着けていただきました。

 

前シテは「尉じょうがみ髪」に面「小こうしじょう牛尉」を付けるのが普通です。「尉髪」は髷の格好ですので、非常に日本人的なものを感じます。そこで髷を隠すために、「唐とう帽ぼう子し」と呼ばれる頭巾を被りました。唐帽子はいかにも中国風な風情になります。しかも白い毛を両鬢に垂らすといっそう老人らしさが増します。

 

現在、喜多流では「唐帽子」をあまり使いませんが、先代宗家・喜多実先生は『張良』に使用されたことがありました。残念ながら我が家では「唐帽子」がないので、今回は観世銕之丞氏にお願いして拝借しました。「唐帽子」は面の眉毛あたりまで頭巾で覆われるため、眉間に彫られた皺が隠れてしまい面の表情が変わって見えるのが難点です。このことは観世流の方々に事前にご注意を受けていたのですが、いざ付けてみると、本当に顔の表情に締まりが無くなり、やや笑い顔に見えてしまい後悔しました。次回はもっと強い表情の、例えば石王尉など、または口髭がある面を使用してみては、と考えています。

 

話は少し脱線しますが、実は『天鼓』の物語は中国の歴史上にはありません。鼓が置かれた阿房殿、雲龍閣も史実として後漢の時代には存在していないようです。

 

中国では「雷」のことを天鼓とも呼び、晴天に雷鳴がして大石が落花し、その石を天鼓と名付けた、ともあります。もっとも日本の仏教にも天鼓はあり、手で打たなくても自然と鳴り出す鼓のことを言うようで、須弥山の頂上、三十三天と呼ばれる帝釈天のいる善法堂にその鼓はあり、打たなくても自然に妙音を出す珍しい鼓とされています。また法華経には「天鼓は帝釈宮にあって阿修羅(悪神・悪の心)が攻め入る時、賊来ると警鐘を鳴らす」と書かれ、法華経巻六には「諸天が、天上界で音楽を奏でる時に使う」とも書かれています。おそらく、能『天鼓』は日本の猿楽師が中国隕石物語と日本仏教の天鼓とを組み合わせて想像して作曲したものではないでしょうか。舞台を唐土にして日本人が創作した空想物語だと私は睨んでいますが、いつか専門家のお話を伺いたいと思っています。

 

話を戻します。もう一つの工夫は前シテの一声を省き「呼び出し」形式にしたことです。普通、前シテの老人・王伯は「露の世に、猶老いの身のいつまでか、また此の秋に残るらん」の一声で登場し、「伝え聞く孔子は鯉魚に別れて…、白居易は子を先立てて…」のサシコエ、下げ歌・上げ歌が続き、愛児を失った身の悲しさを嘆く謡が綿々と謡われます。この部分を割愛して、ワキの勅使の名乗りの後、すぐに「いかに此の家の内に王伯のわたり候か」と尋ねる形にしました。これは観世流の小書「弄ろう鼓こ之の舞まい」の演出方法でもあります。

 

この最初のシテの謡は、なかなか詞章も節もよく、愛児を失った老人の諦めや失墜の感情が彷彿とする聞かせどころですが、物語をより的確に現在物らしく演出するにはやや重い印象です。現代の能はよりコンパクトにより凝縮された形が求められています。老父の悲しみを長々と語らなくても「そも何と申したる勅使にてござ候ぞ」のシテの応答の一句で愛児を失った老父の悲しみと諦めを一瞬にして観客に伝える。時間をかけるより能役者にとってはこちらの方が難易度は高いのです。

 

今回、敢えてその高いレベルに挑みました。見所の奥まで老父の感情が籠められた謡い声が聞こえる、しかしその声に精気は感じられない、まるで残りの人生を諦観しているかのような弱者の声、そのように聞こえる謡が出来たら…と挑戦して、自分なりの課題も見えてきました。

 

今回『天鼓』を勤めるにあたって、この曲が何を言いたいのか? 何を観衆に伝えたいのだろうか? 稽古すればするほどわからなくなり考えさせられました。

 

愛児を殺される能に『藤戸』と『天鼓』があります。『藤戸』の母は、我が子を海に沈めた佐々木盛綱に対して殺意を持ち刺し違える覚悟がありますが、『天鼓』の父は違います。我が子を殺されながら不思議と怨念が見えません。老父にとって愛児の死は何なのでしょうか? 諦めに近い喪失感で満ちています。

 

一度は拒む参内も、愛児の愛用した鼓をせめて見たい一心で、我が子のためにと勅使に従います。もし鳴らなかったら殺されるだろう、それでも我が子の愛した形見の鼓を手に取ることが出来れば…と思う親心なのです。そして鼓を打つと、鼓は鳴り響き、それはあたかも我が子の声に聞こえ老父は安心します。

 

一方、後シテの天鼓少年は、勅に従わぬ自分が悪く、当然の報いとして地獄に落ち苦しんでいますが、皇帝の弔いに今は浮かばれたと喜び感謝します。そして舞の所望に勅命と喜んで舞う少年の亡霊。命を奪われながら、なぜここまで従順なのだろうか、ここも稽古していて不思議でした。なぜ老人も天鼓少年にも怨みがないのだろうか‥‥。

 

さてはこれは作曲した猿楽師の芸能者という立場からではないか、と推察します。体制派を褒め称えるのは芸能者の宿命です。彼らの応援なくして生活が成り立たないことを芸能者は充分承知の上で、そこで生きていくしかないのです。恨み辛みの感情などは控えめに演出し、皇帝の情の深さを讃えるのです。この能を観る権力者はご満悦でしょう。しかし、ただ一点だけ芸能者の意地が書き込まれているのが稽古して判りました。それは、皇帝が少年から鼓を無理矢理奪い取り、権力をかさに横暴を奮うが、鼓はだれが打っても鳴らない、この鳴らない現象です。唯一、鼓は帝に従わないのです。ここに芸能者の隠された心意気を感じます。権力なんて無理強いしても所詮限度があるのだ、と言わんばかりです。低頭して服従して、でも心根は崩さない、そんなところの見え隠れを捜して能を勤めることが面白くてたまりません。

 

『天鼓』は前場も後場もテーマが盛りだくさんです。愛児を失った親の悲しみは、この曲の大事なところだと思いますし、さまざまな工夫も述べてきました。しかし最後は、愛児の天鼓少年が天真爛漫に夜遊の舞を見せる、ここに重きをおくことこそが、老人の一番の喜びではないだろうか、そう思って勤めました。演能レポートで捕捉&写真入で掲載しています。

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