阿吽39 粟谷新太郎十七回忌に寄せて 粟谷能夫

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平成二十七年は父新太郎の十七回忌を迎える年です。晩年の十年は舞台から遠ざかっていたため、その姿をご存知ない方も少なくないことでしょう。

 父の舞台は古武士の様な骨格を土台とした〝情〟、時に〝熱情〟、或いは〝激情〟に充ちた熱いものがありました。理屈ではなく舞台の役に入り込んで行く後ろ姿を見ながら、私はごく自然に後を継いできました。

 しかし私自身は青年期独特の反抗もあり、喜多流だけでなく他流への関心や理論的な事への興味を抱いた頃、並行して内省的な引いた表現を目指した時期がありました。

 内省的といえば、内側から湧き出すエネルギーを閉じ込めてこそ成立をみるのに、型ばかりの表現だったのかと、今では冷や汗ものですが、父はそんな私の舞台を頭ごなしに否定せず、ハラハラしながら見守り続けてくれました。自分から心情的に離れていってしまう不安や、当時私は喜多流十五世喜多実先生に師事していましたから、その不興をかってしまうのではという危惧など、父にとって心配が絶えなかったと思います。芸を継いで命脈を保つのも、それなりの葛藤があったのです。

 そのようなことがあり、芸風はそのまま引き継いだとは言えませんが、父からの影響は、能面への思い入れと、謡を大切にする点で多大といえます。

 父が能面を求め続けたのは、舞台で能を舞う為といえます。一期一会、その時で舞台は終わってしまいますが、能面を介して今でも私の脳裏には父の舞台姿が甦ります。面の表情を読み取り、面に助けられて役に入り込んで行く感情移入の方法は、間近で接することで得た財産といえます。又情景や心情を謡で描けなくては舞台が成立しないのだと常々言い、一朝一夕で上達できない謡の習得の努力を大切にしていました。 昨今は多くの観客の皆様にとって、謡は昔の言葉で難解なところもありますので、事前に詞章を読んで頂くなりして、謡の音曲的面白さも含めて親しんでもらえたらと願っております。

 

写真「紅葉狩」シテ粟谷能夫(H26/10/12) 撮影:吉越研

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