阿吽22 『青野守』 粟谷明生

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近年の『青野守』はおそらく二百年ぶりの演能ではないでしょうか。春の粟谷能の会(平成十八年三月五日)で珍しい『青野守』を勤めました。

喜多流には他流にない、従来の曲名に色名を付けて演出を変えることがあります。たとえば『白是界』『白田村』『白翁』などで、いずれも詞章を変えずに、謡の位や面・装束などを変えることで曲の位を上げています。『青野守』も同様に演じる精神性が違うと、私は思っています。

『青野守』については、我が家にある伝書のひとつ、九世喜多七大夫古能健忘斎の教えを書き留めたものに記載されています。実は昨年、大阪で高林白牛口二氏が二百年ぶりに『青野守』を勤められました。私がお聞きしたところでは、我が家にあるものと同じ伝書をもとに掘り起こされたようです。これで途絶えていた『青野守』が陽の目をみることができたのです。私も同じ伝書を持つ身として、是非一度勤めてみたいと思いました。

その伝書には「野守の後を萌黄法被、萌黄半切にて致す事在り、是を俗に青鬼などと言う人あれどもさにあらず。野守は春の能なり、尤も切には地獄の所作あれども、まったく地獄の鬼にてはなし。春日野の陽精、また春神の心なり・・・・古能公披かれ候なり、世人知るべし」とあります。

後シテは萌黄法被、萌黄半切にする、春の能だということ、野守の鬼は地獄の鬼ではない、春日野の陽精、春神の心であるということが、私のイメージを大きくふくらませてくれました。先人にこんな風にしゃれた演出を考えた人がいたということも大いに刺激になりました。

若いときは後シテの扮装が法被、半切を着て赤頭に唐冠を戴き面は小ベシミで、『鵜飼』の後シテと同じ、地獄道や奈落という詞章からも『鵜飼』の閻魔大王と錯覚して勤めていました。しかし詞章を読み込んでいくと、『野守』の鬼神は人に害を与えるような鬼ではないことが判ります。この鬼はもっと特異な存在として描かれている、そこが世阿弥らしいのです。「怖れ給はば帰らんと、鬼神な塚に入らんとすれば」と「あなたが怖いと思うならば自分は墓に戻るよ」といかめしい顔とは反対に素直な純朴な心の鬼神です。

では、鬼神とは何でしょうか。鬼神は「きじん」とも「きしん」とも発音して謡います。雑誌「観世・『野守をめぐって』」で京都大学教授の浜千代清氏は「きしん」の場合は超自然的な存在で神の方に重点がおかれ、「きじん」と濁ると変幻自在の鬼のほうになると説明されています。『野守』ではその両方の言い方をしているのが面白いところです。

太古の時代、人間は死ねば神か鬼になる、生前の行いがよければ神になれるが、そうでなければ鬼になるしかないという信仰があったようです。死ぬと鬼というのはいささか悲しいですが、その鬼にも救いの解釈はあります。それは「鬼もまた神なり」、荒ぶる神という解釈です。この鬼も神なりの言葉で伝書がいっそう身近なものになりました。

私は後シテの鬼神は地霊や国つ神、また守り神ではないかと思っています。東西南北有頂天から地獄まで四方八方全宇宙を照らし映し山伏に見せる神に近い存在で、伝書にある通り陽精とか春神です。先住の土着の魂や霊神は体制側の天つ神に押しやられ、徐々に引き退きながら地下深く隠れるしかなかったのです。口を結んで憤怒に満ちたベシミの形相となりながらも決して戦いを挑まない無言の抵抗者です。これを同じ境遇にある芸能者が演じる、それが能発生当時の真髄と言えるのではないでしょうか。

『青野守』は後シテを地獄の鬼というより春神や陽精という位に一段上げた演出といえるでしょう。

装束については、後シテは伝書にある通り法被・半切を萌黄色にしました。厚板も同色にし総萌黄として、草萌える春の能のイメージ、『青野守』の青を表現します。

頭(かしら)は何も戴かずに白頭にして、面は従来の小ベシミを大ベシミ型の「黒ベシミ」にしました。『大江山』や『紅葉狩』、『土蜘蛛』のようなショー的な鬼退治の話ではないので、神のような、スケールも大きい鬼のイメージでアニミズムの雰囲気を醸し出せればと考えました。

ここからは舞台進行を追いながら今回の演出を記載したいと思います。

最初にワキの出羽国、羽黒山の山伏が登場します。この山伏は修行を積んだ立派な修験者で、だからこそ、野守の鬼神はその法味にひかれて出てくるのです。山伏がこの曲の軸を担っていると思います。そこで今回はどうしてもと、宝生閑先生にご出演依頼しました。

『青野守』の前場は通常とほとんど変わりません。前シテとワキの問答の場面で、野守の鏡に二つのいわれがあることや敏鷹(はしたか)の伝説が語られます。シテの語りの最後、「狩人ばっと寄りて」で、老人がすっと立ち正面先に出て水底を覗く型がありますが、ここの動きが老人ということをすっかり忘れて若さあふれる荒い動きとなると、以前注意された箇所です。近頃少し老人の動きとしての瞬発力とは何であるかが判ったように思えるのですが、果たして今回はそのように出来たでしょうか。

その後「敏鷹の野守の鏡得てしがな思い思わずよそながら見む」と新古今集の歌を取り上げ、帝を賛美しながら老人は老いの思い出の世語りに落涙します。このあたりは体制側へのお世辞のようで、演じていてしっくりこない部分でした。他にも「ありがたや慈悲萬行の春の花」と春日野を賛え、決して帝の賛美を忘れない曲の構成は、世阿弥の芸能者としての置かれた立場が伺えるところです。

この話が終わると、山伏は「野守の鏡」を見たいと所望します。鬼の持つ鏡で、見れば恐ろしいことになるから、池の水鏡を見ろと言い捨てて、老人は姿を消し中入りとなります。この場面、伝書に「中入り前に杖を捨てる型あり」とあり、私も今回試みました。杖を捨てることで老人の姿がすっと消え失せ、杖だけが不思議に残る、という場面効果を狙ったもので、後シテへの期待感をもたせています。

山伏は里人(アイ)に池の謂れを聞き、奇特を喜び塚に向かい祈りをあげます。すると塚から大地に響く歓喜の声があがり、鏡を持つ鬼神が現れます。

通常の『野守』では引き回しを下ろさずにシテは後ろから出て塚の横に鏡を持って現われます。歴史資料を調べると江戸中期までは喜多流も他流も引き回しを下ろしていたようですが、後期になり下ろさぬ方がよいということになったようです。私の持っている伝書にも「下ろさぬが吉」と書かれています。しかし今回敢えて下ろす試みをしました。引き回しを下ろし鬼神が作り物の中から現われた方が土や守り神のイメージが塚と一体となって見えるのではないだろうかと思ったからです。

ただ、この塚の中にいる演出にはひとつ問題があり、文献資料にも先人たちの苦労が書かれています。「怖れたまわば帰らんと、鬼神は塚に入らんとすれば」のシテの詞章があるため、この謡の中で塚にいること自体が道理に合わないのです。ここをどのように処理するかが苦心のしどころです。私は塚の中にいて床几から降り下に居る型でこの問題を解決したいと考えました。

後場の象徴となる鏡については、本来喜多流では小さい鏡でその縁を持つ手法ですが、これでは面とのバランスがとれない、鏡もまたそれに似合ったスケールの大きさがなければいけないと考え、観世銕之丞家の特大の鏡を見本にさせていただき、今回新たに作りました。そのため、鏡を扱う所作の見直しという新たな稽古も加わりました。

鬼神が現われると山伏はひたすら祈り数珠を揉みます。もちろん鬼を退散させるためではなく、もっともっと見せてほしいと祈るわけですから、鬼神はそれに応え、祈られれば祈られるほど得意になり鏡を四方に照らし映し見せます。私は鏡というものがものを映すだけではない、サーチライト、烽火のイメージで照らす意味合いもあると思って演じています。天地東南西北の四方全宇宙を映しだすと同時に照らし出すエネルギーも必要だと思うのです。

一般に位が重くなると、どうしても鈍重になりがちです。『白是界』のように面が「ベシミ悪尉」ならば納得出来ますが、今回は大ベシミです。鈍重過ぎては効果が半減してしまいます。そこで要所要所に起伏がほしいと思い、太鼓の観世元伯氏に「一金伽羅二制多迦…」から替え手を打っていただき、地謡には「暇を得ず」の謡に緩急をつけ、強く締めて謡ってもらうようにお願いしました。

最後に鏡を、観世流や宝生流が奈落まで持ち帰るのに対して喜多流はワキに手渡します。大事な神聖視された鏡を山伏に手渡すことの是非はあるでしょうが、演者としては後の居留の型のことを考えると手渡すことは都合がいいのです。前回の小書「居留」では中啓を持ちながら組み落としをしましたが、どうも中啓が似合わない。両手を大きく広げ半切袴の裾を持ち上げ飛び上がり安座して地下深く消える、この型には何も持たないほうが力感が出ていいのです。ならば思い切って中啓を持たないで演じてみよう、とこれはかなりの冒険でありました。

今回の新工夫した『青野守』は、『野守』という曲を深く掘り下げて研究することの材料となりました。能は調べればそれだけの答えが返って来ます。先輩や仲間に尋ねると皆さん真摯に答えて下さいました。感謝申し上げます。

今私は能楽師として、再考、再演出できた喜びを味わっています。しかし『青野守』は一回の演能では完成度は高まりません。私も再演に再演を重ね、また他の能楽師の方にも演じていただき、より完成度の高い『青野守』が出来上がればよいと願っています。

*(「粟谷能の会」のホームページ演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

写真 粟谷明生 能「青野守」粟谷能の会 18年3月  撮影 石田 裕 

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