阿吽24『翁』の心  粟谷明生

阿吽24 『翁』付『弓八幡』を勤めて
伝書に描かれた『翁』の心
粟谷明生

平成十九年四月十六日、厳島神社御神能で四年ぶりに『翁』付脇能『弓八幡』を勤めました。披キの『翁』は同じ御神能で平成七年(三十九歳)ですから、丁度十二年前、そのときの脇能も『弓八幡』でした。

『翁』は「能にして能にあらず」といわれ普通の能とは異なり別格です。発生は平安時代や鎌倉初期といわれ、中世室町時代初期に出来上がった能に比べ、演出や構成に特異性が見られます。

私が厳島神社で『翁』を勤める喜びのひとつに、屋外しかも海の上という特殊な場所で舞えることがあります。晴雨に関わらず翁烏帽子に装束を纏い日光や風、大地の香り、ここでしか味わえない潮の織りなすいろいろな現象を肌で感じながら勤める『翁』は貴重なひとときです。

翁大夫(シテ)は「天下泰平、国土安穏」とご祈祷を謡い、演じるというよりも神事に奉仕する気持ちで勤めます。ご覧になる方も、神への儀式を芸術的に表現する芸能の鑑賞、と思っていただければいいのではないでしょうか。

『翁』は位が高い大曲です。しかし『翁』を数回勤めて、何故これが大曲であるのか、不思議に思うようになりました。軽視はしませんが、喜多流の『翁』では大夫が勤める時間は出入りの儀式を含めても僅か三十分、実質謡い舞うのは十五分ほどです。この短い時間に謡や舞の秘事奥義が隠されていて技術的にも難しいことは紛れもないことですが、『猩々乱』や『道成寺』などに比べると正直、軽量感を感じてしまうのです。それでも大曲である所以は、神事を芸能化した『翁』であることと、その後に脇能を勤めなければいけないからだと思います。脇能の後シテで神体となって颯爽と舞い、そのために二時間半を超す演能時間、支度から最後の三役への挨拶が終わるまでの時間を入れれば、有に五時間を超すこの長丁場の『翁』付脇能を勤め、その日の大夫、長(おさ)の立場と責務を背負うのです。

近年『翁』のみの興業は多くなりました。しかしそれは『翁』が持っている本来のものとは似て非なりで、まさに見せ物化してきています。能楽師がそれをショーとして勤めてもいいですが、一方で『翁』付脇能という辛い本来の形もあるということを忘れてはいけないと思います。

『翁』の構成は大きく白式尉と黒式尉の二つに分けられます。翁大夫は前半の白式尉の舞を勤めます。この前には露払いの千歳の舞があり、上掛はシテ方が勤めますが、下掛では狂言方が勤めます。後半の黒式尉の舞は、揉みの段と鈴の段に分けられ、どちらも狂言方の三番三(和泉流は三番叟)が舞いますので、下掛の『翁』は大半を狂言方が担っていると言っても過言ではありません。

『翁』を勤める前には「別火して精進潔斎して舞台に臨む」などの心得があります。しかし、今の時代、伝書通りに行うのは難しく、時代に合ったやりかたで、大夫が真摯に対応し、潔斎していけばよいと思っています。

今回は前日に宮島に入り、個室に宿泊し、朝五時に起床して身を清め、朝食は『弓八幡』で初ツレを勤める弟子の佐藤陽君ととり、気持ちを引き締めて舞台に臨みました。

翁大夫の装束は伝書には厚板色無、俗名「浮糸」と書かれていますが、ここ厳島では紅無柳模様の厚板がお決まりで紫指貫、狩衣となり腰帯は緞子となります。

『翁』には鏡の間(厳島では楽屋)に翁飾りと呼ばれる祭壇が置かれます。その前に着座し、大夫、千歳、三番三、囃子方、狂言後見、地謡の順に礼をして御神酒を頂きます。

御神酒を頂いた囃子方はすぐにお調べを始め、千歳が面箱を高々とかかげて、大夫の「おまーく」の掛け声で翁渡りが始まります。幕が上がると、千歳に続いて大夫はどっしりと一歩一歩位をもって運び始めます。この運びがなかなか難しく、父は歳を重ねれば自然と出来る、若い大夫はどうしてもここに風格が出ない、と話していました。確かに、なかなか風格が出るまではいかないと感じます。

大夫は舞台正中から正面先まで進み、座礼します。伝書には「偉い方は南に向いて座るから、北を向いて礼をする、北斗へ向かう心」と意味ありげな記載があります。私は空を見上げ、貴人にというより、神に「ご祈祷と舞を捧げます」とご挨拶の気持ちを込めて深々と礼をしています。

座礼が終わり、大夫が地謡座近くに座ると千歳は面箱を大夫の前に置き、面箱から翁の面を取り出します。これを手際よくするのが千歳の技量の一つです。千歳が脇座に移動するのを合図に、橋掛りに着座していた囃子方から一同順に舞台に入ります。地謡は『翁』に限り囃子方の後(後座)に着座します。これは『翁』が平安末期か鎌倉時代初期に作られた名残だといわれています。囃子方が着座すると笛はすぐアシライを吹きはじめ、その間に小鼓三人は素袍上下の上を脱ぎ道具を取って連調となります。

三丁の小鼓の打つ手組を聞いて、大夫の「どうどうたらりたらりら、たらりあがり、ららり、どう」と意味不明な謡となります。我が家の伝書には詳細に意味が書かれていますが、これは音だけでも充分楽しめますし、また呪文と思えば、意味不明でもかまわないと思います。『翁』は詞章より、ノリ、躍動感あるリズムが命と思い勤めています。

千歳の舞は露払い。この役は『翁』の中で唯一若やいだ役です。千歳の「所千代までおわしませ」の謡で大夫は舞台上で堂々と面を付けますが、『翁』ならではの演出です。

面を付けた大夫は正面に向きご祈祷となります。このご祈祷の謡は、朗々と張って、なお奥深い広がりや内に引きつける力が感じられれば最高位の謡、と評されるでしょう。私も屋内ではそのようにと目指していますが、ここ厳島では意図的に少し変え、全身全霊で神に届くが如く大きな声で張って謡うことを優先しています。厳島はもちろん、屋外という場で勤める時、謡い方をどう探り見い出すかは能楽師の大事な心構えです。この作業を怠っては厳島の神だけではなく八百万の神々がお嘆きになるでしょう。

ご祈祷の謡いが済むと翁の舞となります。目付柱まで運び天の拍子を踏み、次に脇柱近くに移動して地の拍子を踏みます。その後、位が少し早まり、翁独特の型、左袖を頭部に翳し中啓で面を徐々に隠して天の磐戸隠れを現すといわれている型となります。舞の終わりには天地人の最後、人の拍子を踏み、「萬歳楽 萬歳楽」と大夫と地謡が掛け合いで謡い、礼をして終わります。

大夫は元の座に戻り面を外し、面に礼をして面箱にしまい、また正面先まで出て座礼をして幕へ向かい翁帰りとなります。大夫が幕に入ると、大鼓は床几に掛けて揉みの段となり、三番三の出番となりますが、それらを大夫は脇能の前シテの装束を着けながら聞きます。

我が家の伝書に「太子伝の翁、云々」と記載があり、これが喜多流の『翁』の基盤となっていますので、その一部をここにご紹介します。

又其ノ後人皇三十三代推古天皇ノ御時、諸国疫癘多ク様々ノ天災有リ。其ノ時聖徳太子摂政シ給フ故、神仏ニ御祈願有シ時、天ヨリ面降リ下ル。太子是レヲ御覧ジテ、是レ翁ノ神楽ノ面也。天是レヲ下シ給フハ、此ノ神楽ヲ奏シテ災ヲ退クベシトノ御託也トテ、翁ノ神楽再興有リ其ノ時、庭上ノ御池ヨリ亀浮カミ出ル。甲ニ文有リ。「トフトフタラリタラリラタラリアラリララリトウチリヤタラリタラリラタラリアラリララリトウ」太子此ノ文ヲ考ヘ、諸鳥ノ囀ヲ以テ調子ヲ調ヘ、神楽ヲ作リ給フ。今ノ翁ココニ始ル。太子伝ニ曰ク、撥調ヲ改テ手調ト為ス。此ノ時ヨリ今ノ世ノ笛始リ、臺拍子ヲ改テ小鼓ト為シ、太鼓ヲ改テ大鼓ニ成ル。「千年ノ鶴ハ萬歳楽ト謡フタリ」トハ諸鳥ノ囀ニ依テ調子ヲ調ヘタル儀也。「萬代ノ池ノ亀ハ甲ニ三曲ヲ備ヘタリ」トハ則チ此ノ文ニ依ル也。此ノ時ノ神楽ハ五人立チニテ翁ハ聖徳太子自ラ舞謡フ。而シテ此ノ神楽ヲ秦河勝ニ伝ヘタフ。

ここからは秘事が多くなりますので中断させていただきますが、『翁』が災いを退くために天からのご託宣として降りてきたこと、「とうとうたらり・・」の詞章、囃子の位置づけなどが生き生きと描かれていて興味尽きないものです。

『翁』が一通り終わると、脇能の『弓八幡』となります。

『弓八幡』は脇能の中でも渋い曲で、世阿弥も「すぐなる體は『弓八幡』なり、曲もなく真直なる能、當御代の初めに書きたる能なれば秘事もなし」と世子申楽談儀に書いているように、小書もなく特別な型所があるわけでもありません。このような曲は、『翁』と同じように真摯に、ただただきっちりと正統に謡い、脇能らしい力漲る構えや運びに心がければいいと思います。

サシから居クセまでは神功皇宮が三韓を従えさすために九州で祭壇を飾り祈ったこと、そして敵を滅ぼし応神天皇を生んだこと、その神が八幡山について石清水八幡宮となった故事を語ります。このクセの詞章が神楽発祥や『翁』に通じ、健忘斎の文言を喜多寿山が記録した伝書に同様に書かれていたのを知り、これにも興味が湧きました。(伝書の引用などはホームページをご覧ください。)

今回、伝書を読み直し、新たに面白い発見をし、私の役者魂が躍りました。伝書という先人たちの功績によって演能する意欲がさらに膨らんだことは確かです。

御神能後、体調を崩し初めての入院を経験して、万が一ということを身近に感じました。書きとどめる作業を通して、私の役者魂が形をなして存在することを思うと、花火のようにぱっと消えてしまう演劇活動に携わっている人間としてはこれもまた面白く、執筆に力が入ります。演能レポートを書き始めて十年余、これからも自分自身の能を見つめるために書き続ける、今回この気持ちをより強く持てたことは神の恵みかもしれません。

シテ 粟谷明生 厳島神社 撮影 牛窓正勝

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