阿吽32 『昭君』を勤めて 粟谷明生

阿吽32 『昭君』を勤めて
不条理な演出の見直しを  
粟谷明生

曲名になっている王昭君は、中国四大美人のひとりです。

漢の皇帝は胡国(匈奴 現・モンゴル)との和睦の条件として、胡国の韓耶将のもとへ宮女をひとり差し出すことを了承します。その宮女の選出がふるっています。絵描きの画によって、三千人いる宮女のなかから一番劣れる容色の者を、皇帝が選び出し決めることにしたのです。

 

美貌に自信のない宮女達は絵描き師に賄賂を渡し、美しく描いてもらいましたが、美貌の王昭君は賄賂を渡さなかったので絵描き師はわざと醜女に描きました。そのため帝は醜女と思われる昭君を選んでしまいます。

 

さて胡国へ旅立つ日、昭君が帝に拝謁すると、その美しさに帝は驚き悔やみます。しかし君子に私の言葉なし(私心なし)と諦め、韓耶将の元へ送るのでした。後日、帝は似せ絵を描いた絵描き師をすべて処刑したと言われています。

 

能の『昭君』はしかし、その美人の昭君が主役ではありません。愛娘を遠い異国の僻地に嫁がせる境遇になった老父母の悲しみの心境を描いています。美人の昭君役を幼い子方に演じさせるやり方はいかにも能らしい演出です。

今回は金子天晟君( 小学校三年生) が勤めてくれました。

 

物語は里人(ワキ=大日方寛)が昭君を弔うために、昭君の父母の私宅に出向く由を述べる名乗りからはじまります。続いて昭君の父・白桃(前シテ=粟谷明生)と母・王母(ツレ=内田成信)の老人夫婦が一声で登場します。愛娘の昭君が胡国に嫁つぐ所以や、胡国への旅行の様子を涙ながらに語ります。

 

一声から初同前までのシテとツレの連吟は詞章が多く長い時間がかかります。ここをだれずに、情景が想像出来るような、説得力のある謡が必要で、能役者の力量が試されるところです。今回は謡に緩急を付け、動きも少し加えることで対応しましたが、中々難しいところでした。

 

実は今回、謡と装束で、中国の老父らしさを彷彿とさせたい、と考えました。装束については後で述べますが、謡については中国人の会話を聞いていて一つの発見がありました。

それは口調の強さです。気持ちが昂ぶり、相手を必死に説得しようとするときの発音の強さ。語気は日本人のものとは大いに違います。

 

今回、試しに強い口調の発音で、ゴツゴツとした固い感じで謡うように試みました。ヒントとなったのは『昭君』の三個所の秘伝、口伝の謡です。前シテの「この柳も枯れ候…」の「枯れ」、そして「鏡に映して影を見ん」の「見ん」、後シテでは「韓耶将が幽霊なり」の「なり」です。いずれも強い気持ちを、調子の張りで表現します。「なり」は「鬼お にぶし節」と呼ばれ、最も甲高い鋭い声を張り上げて夷の大将の威勢をみせる特別な節です。これらは謡本に特別な謡い方の記載はなく、私たちは先人からの口伝で伝承しています。

 

この前シテの二個所の強い気持ちを込めた謡、これこそが老父の性格を裏づけるもので、この老父に老いの柔和な感じは不似合いです。気の強い性格の老人を演じてこそ昭君の父になる、そのように思い勤めました。面も性格の強さに合った、野卑なきつい表情の三光尉を選びました。

 

老人夫婦はしきりと柳の木陰を清め、自らの心を慰めています。この柳は娘の昭君が胡国に送られるとき、自分が死んだらこの柳も枯れるでしょうと言って植えた形見の木。最近枯れはじめたので老父は悲しんでいます。

 

この柳は物語の重要な役割を担っています。しかし、現行の喜多流の『昭君』では柳の木はありません。シテもワキもあたかも柳が有るかのように会話しますが、柳は舞台に存在しないので、能をご覧になる方は、本舞台正面先に柳の木があると想像しなければなりません。能は想像の世界と言われていますが、これは度が過ぎます。他流では、このような不親切な現行の演出を見直して、柳の作物を置いたり、柳に鏡を付けるなどの新演出を工夫しています。

 

例えば、『羽衣』や『松風』は正面先に「松」の作物を出し、三保の松原や須磨の浦の一木の松(ひときのまつ)の情景をシンプルな一本の松で想像させます。効果は抜群です。『昭君』も当然「柳」があるべきですが、ありません。

 

 何故このようになったのでしょうか。私は能役者側の行き過ぎた合理主義が原因だと推察します。猿楽の能が江戸幕府の式楽となり、観る側が大名など詞章が頭に入っている場合、自ら松を思い描いて楽しんでいたのかもしれません。そのような高尚な相手に、柳を出す説明的な演出は不要だったのでしょう。故意に避けたのだと思われます。それが近代まで続いて来たのが悲劇です。現代はより判り易い演出が求められ「柳」は当然出るべき小道具だと思います。

 

 老人夫婦が柳の木陰を清め終えると、里人が昭君の弔いのためと訪ねて来ます。老父は弔いの来訪を感謝しますが、心の底では娘の死を認めていません。なかなか納得出来ないでいるのです。そして、恋しく想う人の姿が鏡に映るという故事を聞くと居ても立ってもいられなくなり、ついに鏡を荒く持ち出し、柳の下に置いて鏡に娘の姿を望み号泣するのです。ここの怒りにも似た激しい動きを、老人らしさを忘れずに演じるのが能役者にとって難しいところです。荒くなり過ぎると若さとなり、荒さを怖れると勢いがなくなる、このバランスを保つ演技こそ能らしいところです。

 

 最近、能舞台で気になることがあります。それは中国の話でも、その姿・格好が日本人役とまったく同じであることです。そこで今回、前シテとツレは水衣の上に側そばつぎ次を着て、少しでも舞台が中国っぽくなればと試みました。後シテの出立ちは、従来、法被半切袴ですが、我が家の伝書に「法被を二つ重ね着し、上の法被を襷に取るも有り」と面白い記載があり、粟谷能夫は以前この扮装で勤めています。

 

 私は、古代武官の礼服で、鎧のイメージも湧く裲襠(りょうとう=打掛け)を着ることで、より胡国の蛮族の大将らしさを出したいと思いました。また、「もとゆい更にたまらねば、眞葛にて結び下げ」の詞章があることから、伝書の「赤頭を鬘帯にて飾り出るも有り」も試み、赤頭に鬘帯を元結のように結び装飾しました。

 

今回、後シテの頭の毛の色についても、赤頭にするか、黒頭にするかで悩みました。後シテの韓耶将は死霊です。鬼のように見えますが鬼ではありません。赤頭は畜類系の鬼のイメージが強くなりがちなので、より人間っぽい黒頭がよいと初めは思いました。

 

実際、観世流では黒頭が主流のように変わって来ました。

しかし、故観世銕之亟(静夫)先生の「赤頭は紅毛人のイメージ」、このお言葉が私の赤頭の選択を後押ししました。赤頭について、鬼一辺倒ではなく、紅毛人、異民族の象徴のようなイメージまでもっていく大きな発想に感服です。もう即座に赤頭と決めました。

 

また頭の上に載せる冠も同じです。「唐冠」は漢民族の象徴のような冠です。初め、胡国の遊牧民族の大将・韓耶将に唐冠は似合わないと否定していました。しかし「敢えて唐冠を付けることで漢と胡国の和睦を意味するのでは?」と説明を受けると、これもまた納得してしまう私です。従来通り唐冠を着用する根拠が発見出来ました。

 

面は喜多流の本面といわれる「小ベシ見」を付けました。面の裏に能静の目利きが記されている歴史ある古面で、前から一度付けたいと思っていた名品です。ただ残念なことに、過去に真っ二つに割れた形跡があり、大胆な修復の跡がある危険な状態の面です。しかし慎重に気を配り使用して、何事も無く、この面をつけられたことは、私にとってたいへん貴重な経験で喜びでした。

 

『昭君』の中入りは早装束です。前場と後場の間に間狂言がないので(注・大蔵流山本家にはシテの所望によりアイが出る場合もある)、前シテは中入りしたら、ワキの退場、子方の登場という短い時間に着替えなければなりません。予め装束に仕掛けを施し、付ける者も着せられ者にも手際のよさ、要領のよさが求められます。今回は、着附をして下さった狩野了一氏、佐々木多門氏、そして後見の内田安信氏の手際よいご協力のお陰と感謝しています。

 

この能は本来、前シテがそのまま舞台に居残り、韓耶将役は別人が勤めるのが自然です。

現行の演出では、老父は昭君の姿が映らぬ鏡に向かって泣き伏し、そのまま中入りして早替りし、後シテの韓耶将役を演じます。これはシテ一人に演出を集約する江戸期の手法の名残でしょうが理屈に合いません。また、一曲の最後は、昭君の美しさを讃える部分ですから、当然子方の昭君に脚光があたり昭君が舞うのが筋ですが、現行は韓耶将が昭君の代わりに舞うというちぐはぐな演出になっています。

 

観世流の方々の中には、この従来のまずい演出を見直し、理にかなった本来あるべき姿に戻す作業をなさっている方があります。古典を現代に合った演出にして、また本来あるべき形が良ければそこに戻すことは、現代能役者の仕事であり使命だと思います。喜多流も積極的な対応をすべき時期が来ていると思うのですが、しかし反面、喜多流自主公演だからこそ、現行のスタイルを期待する観客もおられる、それも現実です。今回は不条理でも従来通りの型付で勤めましたが、柳の作物を出し、韓耶将は別人が勤め、終曲の昭君の舞は子方が舞うという、ごくあたりまえの新演出の発掘作業が早く起こればよいと願っています。

(平成二十三年六月二十六日、喜多流自主公演にて)

 『昭君』 シテ 粟谷明生(平成23 年6月26 日 喜多流自主公演) 撮影:前島写真店

『昭君』 シテ 粟谷明生(平成23 年6月26 日 喜多流自主公演) 撮影:前島写真店

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