阿吽9 ハ・ハ・ガ・メ・ト 粟谷菊生

古人の歌に「しわがよる。ほ黒が出ける。頭がはげる。ひげ白くなる。手は振う。足はよろつく。歯は抜ける。耳は聞こえず。目はうとくなる。身に添は頭巾襟巻、杖、目鏡…云々」(仙崖の字句をそのまま引用)と続くのがあるが、自分が該当しないのは僅か三つでガックリ。鼻の下の大きな黒子は生まれたときからのもので、よく剃刀で切り(電動カミソリでも)血を流す。若かりし頃の多すぎて困った髪は周知のように情無い状態となり、頭巾ならぬハンティングを冬は防寒、夏は日除けに、風吹げば、ほうぼうの逆髪になるのを押さえるために四季愛用することになる始末。耳も確かに遠くなり、テレビの音量を矢鱈に上げ、妻の声もとみに大きくなり、物が見えない見えないと騒いで「眼鏡もかけずに見えないとは図々しい」と呆れられ、その眼鏡を探すのに、これ又多くの時間を費やす。生来、家庭に於いて、使ったものは決して元に戻さないという習性を持っているため常に何処に置いたか判らなくなるのだ。眼鏡がない、眼鏡が無いと探しまわっていると、「新聞の下になっているのでは?」とか、「洗面所では?」とか、時には探している物を「これでしょう?」と云ってヒョイと目の前に出してくれる魔法使いのお婆さんのような妻のいるおかげで男ヤモメでない僕は幸せ。一人で暮らしていたら一日二十四時間の内、三分の一の八時間は探し物に費やすことになるだろう。忘れ物のないようにと、「ハンカチ、歯(部分入れ歯)、がま口(札入れと小銭大れ)、眼鏡に時計」の頭をとって、紙に大きくハハガメトと書いてくれたのを口だけハハガメト、ハハガメトと呪文のように唱えるだけで、実際は身につけていない口先居士。一つずつしっかりチェックしているつもりなのだが、駅まで来て始めて持っていないことに気づいたり…。あゝ年はとりたくないものとかこつこと毎日。弟子の多くが(何故か女性)膝を痛め、困っておられるが、僕も脳梗塞から具合の悪くなった左足には苦労している。駅の階段を一段毎に足を揃えて下りている人の難儀さ、座りつづけると立てなくなってしまう始末の悪さも知り、他人の苦しみが今更ながら身をもってよく判った。昨年十月の『巴』と『花月』の能は、僕にとって一つの目標だった。この二曲を自分なりに工夫してクリヤー出来たことは、まことに有難いことだったが、十二月の囃子科協議会定式能に於ける『藤戸』は、痛み止めの薬を飲んで揮身の力を振り絞った必死の思いの舞台だった。そして正月三日にNHKで放映の『羽衣』は、『藤戸』の九日後の、足の具合のますます悪くなった時に収録された。僕の一番好きな此の能が、不本意にも思うような従来の運びが出来ず、これが全国に放映されるのかと思うと悔やまれてならない。足がこんなに不自由になってしまう前に何故、撮っておいて貰えなかったのか。愚痴は言いたくないが、まことに残念だ。この残念は、今年から未来永劫続くことになるのだろう。長生きをするというのは、こういうものなのだ、と残念無念を噛みしめ、目の前に餌をぶら下げながら、その餌に向かって一生懸命走る短距離ランナー、それしかない年齢となった。昨年の喜寿の誕生日は僕の意思で、近所の寿司屋でさゝやかに妻と自祝したが、三年後の傘寿は盛大に菊全会をやるぞ!と意気込んでいる。それまではボケてはいられない。八十近くなると、演じられる曲目は、だんだん限定されてくる。前方にかゝげる明るい光は、いっ消えるか判らぬが、その時まで毎回、完全燃焼して謡い、舞いましょう!!

koko awaya