阿吽4 出会い 粟谷能夫

この阿吽のなかで『我流年来稽古条々』を連載していて自分たちの修行時代を振り返って見るということをしているのですが、その中で自分自身の未熟さを痛感することも多いのですが、一方では、若いころに素晴らしい出会いがあったから、能という仕事に生涯をかけていられるのだと、今更ながらに思います。

 私たちの世代は明治に育った錚々たる名人の最後の舞台と、戦後、能の価値を意識的に問い直して出発した観世寿夫さんの舞台を見ることが出来ました。そうした舞台から大いに触発されて頑張ろうと思ったものでした。

 多分十代の後半の頃、友枝喜久夫先生の『葵上』のツレの役が付いて、大抜擢だったんだろうと思うのですが、その舞台のあと、恒例の我が家での忘年会で父と菊生叔父と喜久夫先生とが飲んでいて、私が呼ばれ喜久夫先生に「能夫、今度謡を教えてやるからな」と言われました。自分にはおっしゃられる意味合いが充分に理解出来ていなかったのですが、いまにして思えば、節が間違っていないというだけのことで『葵上』という作品のツレの謡になっていなかった、そのことをおっしゃられたのだと思います。基本の技術の上に立ったうえで、作品の内容に即した表現に出会っていなかったということです。

 そういう自己の芸を確立していこうという時期に、多くの名人や、とりわけ寿夫さんの舞台を見たことで、型をなぞるだけでない、作品に出会った表現をするという方向性をもてたように思えます。

 どの世代の若者もそれぞれの時代の制約のなかで、精一杯生きて学んで稽古しているのでしょうが、自分たちがそうした先輩たちから学び、身につけて来たものと比べ、いまの若い人たちはこと技術においても、志しにおいても衰弱しているように思えてなりません。

 明日の自分を見ていないのです。今しか見てない。時間を切り売りして、なんとか今の辻褄をあわせて、それでしのいでいる。自分のやる曲にはオタクになっているけれど、その根底に人の舞台を見てそれに憧れ触発される、といった志しが感じられないのです。規範を追うことで汲々としていては自前の表現に到達しようもない。

 私の思う佳い能は、自分が獲得した技術や曲への取り組みかたが、周りの皆に理解され支えられ一体となって表現されたものです。そうした方向に向かった習練がなされていないのではないか。

 私の祖父たちの世代の名人は血の出るような稽古を積んで、それもただ、ダメだ、ダメだと言われ、よくいわれて手が高いとか低いとかそんななかでの稽古をして来たから、舞台に立って、シカケ、ヒラキをすれば、自ずから『船弁慶』の能になり、『湯谷』の能になった。しかし我々の世代は勿論、今の若い世代もそんな稽古はしてないし、出来ないのにもかかわらず、シカケ、ヒラキ、といった型を組み合わせたら能になると思っている。それではいつまでたっても作品とは出会えない。もっと自分の視点、美意識といったものを日々積みあげていかなければ駄目だと思う。

 私はいつか自分がこの曲を手がけるんだという思いで能を見て来たし、その舞台から受けた刺激の積み重ねで今迄やって来ました。

 譬えで言えば、二人のコックがいて、一人はその道が好きで命懸けでコックをめざし、もう一人はほかにやることがなくて、たまたま家がその仕事をしているからという理由でコックになった。一人は勉強もするし、ほかのコックの仕事も熱心に見て良いところを取ろうとする。もう一人はそこそこに型どうりの仕事をして日々を送る。この二人はどちらもコックを職業としているからともにプロだということになる。その出す料理は違うに決まっているのに、世間では同じプロということになる。どちらのコックになるかは本人次第だが、その道で生きるかぎりどちらを選ぶかははっきりしているはずだ。

koko awaya