阿吽20 『花月』 粟谷明生

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今年の厳島神社御神能(平成17年4月16日)で『花月』を、平成3年の御神能以来14年ぶりに勤めました。今回は『花月』地謡が、23名(前列10名、後列13名)という多数の参加で、最後に出られた3名の方が後座に座るという異例の事態となり、東京国立博物館蔵の「能狂言絵巻」を思い出すような光景となりました。

父が地頭を勤めるのに、こんなに多くの地謡では音が揃うか心配でしたが、その不安も何のその、意外によく揃ったのには驚きました。父にどうして揃ったのか聞くと、低い調子で謡うと皆が自分勝手に謡い出す、そうなると収拾がつかなくなる、最初からかなり高めの音で謡う、すると皆揃えようとしてうまくいくのだ、と教えてくれました。

 

能『花月』の面は「喝喰」(かっしき)をかけます。「喝喰」は喝喰行者に似せて作った美青年の顔で銀杏型の毛描きが描かれているのが特徴です。今回使用した厳島神社蔵の「喝喰」はお世辞にも美青年とは言えないお顔です。神社には傑作な「喝喰」があるのですが、奉納ではなかなかそのような逸品は出てこないのが御神能の近況です。

昔は楽屋を見渡すと、どれもこれも目を見張る面や装束が並び、それらに触れていると江戸時代にタイムスリップしたように感じられました。管理する神社側の立場では、名品や逸品は大事にしたいでしょうから、お蔵から出さずに保管し、いざという時だけ使うとの配慮になるのは仕方のないことです。とはいえ役者はどんな舞台でも最高、最善を望みますから、正直今回の「喝喰」は少し心残りな思いがしました。

喝喰とは本来禅家で大衆読経のあと大衆に食事を大声で知らせる役僧でしたが、のちに稚児ともいわれる有髪の少年達が勤めるようになり、そして時代が経つにつれ、芸能者の徒となり堕落していったと言われています。室町時代、能の創作期頃には多分寺院に関わることよりも、もっぱら道の者となり芸尽しの芸能者レベルでの生活にひたっていたのではないかと推察出来ます。

喜多流の『花月』の謡本の曲趣には、「喝喰物として芸能尽しに興趣の中心がある。<中略>深刻とか悲痛とかいう内容のものではなく、一脈の洒脱味が軽快明瞭な印象を与える。少年をシテとする可憐な遊狂の一曲」とあります。

ここに書かれている通り、この曲は親子対面劇が主軸ではなく、芸能者、花月の芸尽しの曲といえます。しかし、この曲が創作された当時の時代背景を考えると、主題は別に戯曲のなかにひっそりと潜んでいるように思えます。それは堕落した喝喰芸能者達への改心でもあり仏道修行への功徳ではないかと思います。今、私も含めて現代人が何とも感じない終曲部分の謡の詞章に「あれなるお僧に連れ参らせて仏道の修行に出づるぞ嬉しかりける」とありますが、どうもそこにメッセージは集約されているのではと、今回演じて思いました。

ではここから、『花月』の舞台進行に合わせて今回の舞台をまとめてみます。

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春、桜の満開な清水寺に旅僧(ワキ)、実は花月の父左衛門が清水寺門前の者(アイ)に曲舞の上手な花月の芸を所望します。すると喝喰姿の花月は弓矢を持って登場し、自分が何故「花月」と呼ばれるかを語りはじめます。花月の「月」は四季常住のもので、真如の意味だから皆判るだろう…。では花「くわ」は何だろうか…。春ならば花、夏は瓜、秋は菓、冬は火と皆同じ「くわ」の字だから季節に合わせて使えばいいのさ…、しかし因果の果と考えれば悟りを開く最後の文字としてふさわしいだろうと、いかにも自然居士の弟子らしい一癖ありそうな説教者ぶりを披露します。

 

 続いて、門前の者に小歌を歌おうと誘われ、仲良く小歌を歌います。観世流の詞章には「春の遊び友達と仲違いしないようにと思って、お仲間入りにやってきたよ」という言葉が入りますが、喜多流にはそれがなく小歌を謡う導入部分が唐突で説明不足の感です。小歌とは室町時代の俗謡で、ここでは男性の同性愛を歌っています。同じテーマを持つ『松虫』に比べ『花月』はシテがアイの肩に手をかけるなど演出表現がストレートです。大蔵流にはシテの腰に手を廻す型もあり、こうなるとかなり露骨でシテ方としては動きにくくなるので、この型は遠慮させてもらっています。小歌は和泉、大蔵二流ともアイが扇で顔を隠し「昔から今までも絶えないものは恋というくせ者、身にはさらさら覚えもないのに、いつの間にやら恋が心に忍び入り、恋しい思いで寝られない」と謡いながら二人で舞台を半周します。

 

歌通り二人は仲の良い様子を見せていますが、急に花月はよそよそしく、何かを察したのか咄嗟にアイを振り払います。この払う所作を「もうこのへんにしておこうよ」とも「誰かの目が気になる」とも解釈出来ます。アイは払われ飛ばされると、目付柱近くで一旦伏し、ふと上を見上げ、「いや! これに目がある、いやいや目ではない。目かと思えば鴬じゃ」と鴬の目と桜のつぼみの芽とを掛けていいます。春先に、朝早く鴬のきれいな鳴き声で目を覚ましたことがあります。丁度、満開の桜、その何処かの枝に鴬は止まってしきりに鳴いている、どこにいるのだろうと捜す自分の姿、それがこのアイの所作にどこか似ていると気づき、一人苦笑してしまいました。

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型付には演者の動きが書かれていますが、その心持ちまでは書かれていません。演者は自己の想像を型に注入しそこから精神性を生み出すものだ、と最近教えられた大事な教えを思い出します。アイを放す所作一つとってもいろいろな考え方があり、それが演者の楽しみであり、能という戯曲は断定をされない余白部分があるからこそ面白いのだと痛感します。ここに登場する鴬も、単に鳥類とも、また無粋な清水寺の見物人とも考えられます。このアイとの一連の動きを型の真似だけで終わらせては、なんとも味気ない、つまらない作品になります。特にここは狂言役者の腕の見せ所で、粋なところです。

前回の茂山千作先生がお相手して下さったときの、あのほのぼのとしながら、どこか滑稽な仕草や味わいある問答、また昔父と野村万作氏が見事に歩調を合わせた小歌の名場面などが今でも忘れられません。 

 

アイは鴬を矢で射殺せと花月へ進言し、花月は弓は花を踏み散らす狼藉者の小鳥を射るものだ、外さず射れば中國の弓の名人養由にも劣らないと豪語し、私の好きな軽快な弓の段となります。弓を引きいざ矢を放そうとしますが、仏の戒めの殺生戒を破ることは出来ないと急に信仰心が出て弓を捨ててしまいます。通常は実際に弓を捨てますが、今回はアイがシテ謡の前にかがんで弓矢を拾い上げる景色が美しくないと思い、以前友枝昭世師が考案されたように、直にアイに手渡すことにしました。アイも殺生戒を破ってはと納得し、花月に清水寺の縁起を旅僧に語り舞うように勧め、クセの舞が始まります。

 

そして、父との再会の場となります。 花月は再会した喜びに羯鼓を打ち、山めぐりの模様を表すキリの仕舞所となります。以前はこの戯曲の主張が何であるかなど一切考えず、ひたすらシカケ・開き・サシと順番だけを、きっちりと美しく見せればよいと考えていたのですが、深く詞章を読み込めば、軽やかに鼻歌まじりに長閑に謡っているキリ部分が、なんと残忍な有り様の描写ではないか、と恥ずかしながら最近知りました。

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七歳の時、筑紫彦山に登って天狗にさらわれ、それからはあちこちの山々に連れて行かれ、悲しい思いをしたと嘆き、羯鼓を舞いますが、つづく謡の内容は陰湿で暗いものです。

まず筑紫彦山、泣きながら四王寺、それから讃岐松山、雪の降り積む白峯、伯耆の大山鬼ケ城、この名前を聞くと天狗よりも怖いと、話しの内容は拉致、拘束、稚児趣味の同性愛と、みな強制されるものです。暢気に春爛漫で謡い上げる内容ではないのです。天狗とはまさに悪僧であり、山から山へと連れて行かれたとは、何人ものお相手をさせられたことで、ホモセクシャルなお稚児趣味の世界であり、花月は悪僧達の遊び道具という犠牲者なのです。父と再会出来たのだから簓(ささら)はもういらないと投げ捨て、父と仏道修業に専念しようとこの曲は終わります。

 

キリの内容はこのようなものですが、舞台に立つとそこまで落ち込んで演じることは私には出来ませんでした。そこが『花月』という曲の持つ特性でもあり魅力なのでしょう。かわいい少年や熟年の方がやられたとき、この曲が耀きを見せるのはそのためでしょうか。しかし反面やはり創作当時の作風・息吹を度外視してはどうだろうか、と思い悩むところです。今回、小品でありながら根深いものを見つけてしまったようで結論が出せませんでした。

 

ただ、ワキが最後に我が子花月を連れて帰る場面で、通常のように我が子をおいてさっさと幕に入り退場しては、連れて帰るという表現が充分でないと思いました。いや、出家なのだから自分の子どもを連れて帰るというのが表に出るのが恥ずかしい、という見方もあるでしょう。しかし私はここでどうしても親子共に退場したいと考え、今回はワキに一ノ松で止まって待っていていただき、終曲してから同幕で退場したい旨を申し上げて対応していただきました。これで親子再会、親子共に仏道修行へと向かう決意がはっきりとし、ほのぼのとした明るさも加わると思いました。

 

『花月』という小品、初めは小馬鹿にしていましたが、お馬鹿は自分で、作品の読み込みを蔑ろにしてはいけないと花月が教えてくれたようです。読み込むことで面白さが増し、表現にもふくらみが出ることを、今回もまた経験しました。

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花月がさらわれた筑紫彦山は昔「日子山」といい、嵯峨天皇が「彦山」と改め、その後霊元法皇の院宣で「英」の字を賜り「英彦山」と称せられたといいます。英彦山神社は社殿まで長い石段がつづき、途中に花月が腰掛けて休んだといわれる石があると「謡蹟めぐり・青木実著」には記載されています。機会があれば是非一度行って、花月を偲んでみたいと思っています。

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