私たち能楽師は、キャディあがりのプロ

京劇では二本の旗を立てると車に乗ったことになりますが、能にもたくさんの約束ごとがあるのはご承知のとおりです。例えばワキが一足出て手を合わせて開けば、ある地点からある地点まで旅したことになるとか、悲しみの表現にも、シテは左手で二度シオるが、ツレは右手で一度しかシオらないというような。昔は南を向いて坐っている貴人の前で演じられた能ですから、舞台は北向きに建っています。『弱法師』の「南はさこそという波の」というところで、シテが南を向けば、天子にお尻を向けることになるのがおそれ多いから、少しはずした型が生まれてきたわけですし、『邯鄲』の能では夢の中での型はすべて逆というのも、曲趣からの発想だとうなづけます。そんなふうに考えてみると、謡でも仕舞でも、もっとわかりやすくなって、興味が出てくるのではないでしょうか。


私はよく稽古中、お弟子さんの型をオーバーに真似てみせます。若い娘さんは「あらッ、ひどいわッ」とにらんだり、キャァキャァと笑いころげたりしますが、実をいうと、そんな真似でもしたら印象に残っておぼえやすいのではなかろうかという気持ちなのです。
うちの稽古場には、サラリーマン・OL・学生さんなど若い人が多勢来ていますが、私のねがいは、誰にでも一度は装束をつけて能を舞わせたいことです。そしてまた、お弟子さんに能を教えるのは私にとってもプラスになることなのです。
というのは、自分の舞い姿は自分では見られないのですから、お弟子さんに能を舞わせて、その姿から間接的にも自分の姿、自分の能を眺めたいのです。だから時々、見所の側面からお弟子さんの能をみつめ、自分を矯正する一つの手段にしています。六平太先生、実先生から受けついだものに、多少自分の工夫を加えた私の能が、果たしてお弟子さんの能にどんなふうに表現されているか。それは私にとって大きな期待でもあるし、こわさでもあります。
私たち能楽師は、ゴルフでいえばキャディあがりのプロといったところ。技の点ではたしかに素人のお弟子さんには真似のできないものがあるでしょうが、素人の能には、時によって私たちをはっとさせる美しさ、よさがあります。それは何だろうと考えてみると、私たちプロとちがって、ねらわないよさといったもの、小学生が立たされている時のような無心の気もちの現れではないでしょうか。
私など、とかく器用だといわれる半面、技に溺れやすい危険性もあると思っているので、そうした素人の能から、時には教えられるものを感じることがあります。
仕舞、囃子は、いわば能のデッサンです。もちろんデッサンがなくては能は舞えませんが、現代人としては、永久にデッサンばかりやっていたのでは、というていこの道に引きいれられないのではないかと思われます。デッサンができて、やがて一環した曲が舞える喜び、それをぜひ一人一人のお弟子さんに味わってもらいたいのです。そうでなかったら、せっかくの能が、やがて上流階級の人たち、少数の人々の楽しみになってしまうのではないか、それが私には心配なのです。

koko awaya