能楽座パンフ「菊生さんを偲んで」

梅若六郎

 私にとって菊生師は、年齢は離れてはおりますが非常に身近にアドバイスをいただける良き先輩でした。特に謡についてはいつも適切な助言をいただき、私自身も菊生師の謡によって触発されることが多々ございました。今となってはそのお言葉の数々が懐かしく、そして心に強く残っております。

 また、永年、能楽会の重鎮としてのご活躍はかけがえのない役割をお果たしになられたと思います。

 この後も菊生師をはじめ、先輩方の教えを思い出しながら舞台を勤めていきたいと思っております。

 

大倉源次郎

 昨年の粟谷能の申し合わせに、菊生先生の地謡で江口を勤めさせて頂けると意気込んで国立能楽堂の楽屋へ入った時、そこに先生はいらっしゃいませんでした。状況を伺い愕然としたことを昨日のように思い出します。

 大阪で育った小生は、大阪菊生会と阪大喜多会の舞台が菊生先生との出会いの場で、力強く独特の浮き節を謡われる菊生先生の舞台と、酒席での先生のお話に純粋無垢な少年が影響を受けるのに時間は掛かりませんでした。

 父を早くに亡くした小生に対して、同じ次男坊で気持ちを良く判って下さったのだと思いますが折に触れアドバイスを頂きました。心細く迷ってばかりいた小生を気遣って下さったことが嬉しくどれだけ勇気付けられたか知れません。

 先生の若い頃は「人数が少ない喜多流は観世流の三人分働かなくてはダメだ。」と猛烈な忙しさで全国を飛び回っていらっしゃいました。阪大OBが纏められた喜寿のお祝いの冊子に、これからは二人分に減らして身体を大切にして下さいとお願いしました。こんなに早くお別れが来るのなら、一人分に減らして大切にして頂きたかったと叶わぬ思いを抱いています。

 現代社会と能楽会、喜多流、そしてこの能楽座を見渡し様々に配慮されていた菊生先生が亡くなった今、大正、昭和、そして平成と戦中戦後を通しての労苦を越えて成されたことを思い直し、この豊かな時代に生まれ、遺された私たちは、これからの舞台づくりを少しでも良いものにすることで遺志を継がなければならないと思い居ります。

 

大槻文蔵

 菊生先生には、大槻能楽堂自主公演に二十数年お舞い頂きました。数々の名場面に多くの方々が感動されました。私も色々の事を勉強させて頂き、今も深く残っています。しかし、一番思い出深いのは私が自分の会で“隅田川”を舞いましたのを地謡して頂いた事です。

「文ちゃんうまく謡ってやるからね。」

 そこは異流しているというような事を、全く感じない自然体の舞台でありました。

 

子を尋ねる母の強さ、孤独感

   念仏の輪がどんどん広がっていく有様

茫洋と明け行く関東平野

 

素晴らしい地を謡って頂きました。

「先生、もう一番“善知鳥”を謡って下さい」と、お約束していたのが出来なくなって残念です。

 色々教えて頂いて有り難うございました。

 

片山九郎右衛門

 まことに惜しい方を亡くしました。

 残念です。

 粟谷菊生さんは東京にお住居の、まして他流の方ですから、京都在住の私には、舞台上の御縁も、スケジュール的にもお出会いが殆どございませんでした。

 しかし、〈喜多流に粟谷菊生さんあり〉とは、先頃没くなった観世榮夫さんや静夫さんから、よく伺っていました。粟谷さんのことを、真剣に、そして愉快に話していられるのを聞き、いい先輩なんだな、と思ったものです。

 その後、追い追いに、東西合同養成会や仲間内のパーティなどで拝眉の機を得ましたが、折々のスピーチには何時も感心させられ、楽しみにしておりました。

 八世銕之亟氏の亡き後、能楽座の代表も務めて下さり、私も折にふれ、大先輩と楽しく一杯やらせて頂くようになり、いろいろお話をする内に、次第にお人柄に魅かれて行きました。率直に申せば、私自身が年齢を重ねる程に、何と得難い、大切な方だ、と思うようになって参ったのです。

 直接拝見できなかった貴方の「景清」の写真集を改めて手にし、感銘を受けております。この決然とした強さ、そしてツレの肩に置かれた手の、むっくりとした温かさ、やさしさ。〈自分が粟谷菊生さんに魅かれたのは、これやった〉。今、如実に感じております。

 賜りました御厚誼、誠に有難うございました。

 心より御礼申し上げます。

 

近藤乾之助

 粟谷さんにお会いすると楽屋でも、道でも「よお……。乾ちゃん」まず、その言葉でした。最近、私におっしゃった言葉で、「我々の年では自分から動かないで、よく見て考えて行く。」そのような意味の言葉ではなかったかと。

 菊生さんに初めてお会いしたのは昭和二十年代の初め、染井能楽堂での能楽協会の稽古会の折でした。

 先輩の能で印象を受けた中のひとつ、景清で作り物から顔を出し、脇、ツレを見る時、背中、腰は作り物の中、そこに景清の生きて来た、過去の姿が見えたのです。

 初めに述べました先輩の「よお……。」と云う声が忘れられません。

 

茂山千作

 確か昨秋のことだったかと存じます。粟谷さんの舞台写真集の出版に際して、私に序文を書くようにとのお話がございました。勿論、積年の畏友・粟谷さんのこと、喜んでお引き受けいたし、昔を偲びつつ拙文を認めましてお送り申し上げたのですが、その後いくばくもなく粟谷さんの訃報に接しようとは……遠く京都におります身にとりましては余りに突然のことで、しばらくは信じ難く茫然自失の体で、やがて深い悲しみと喪失感がおしよせて参りました。

 粟谷さんとはお兄様の新太郎さんともども、七十年に垂んとするお付き合いでございました。豪放闊達なお人柄で無類のお酒好き-----そんな処が互いに触れ合ったのでしょうか、舞台が終われば共に盃を重ね、酔えば談論風発……誠に芸の上ではよきライバル、舞台を離れれば無上の友-----最後まで「七五三チャン」と私の本名で呼んでいただいたのは粟谷さんお一人でした。

 粟谷さん亡き今、ありし日がひたすら懐かしく、寂しさがひしひしと身に迫ります。

 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

茂山忠三郎

 菊生さんとは六十年ほど前から毎年宮島の桃花祭の奉納の時にお会いしていました。

戦後、桃花祭は一日目と三日目は喜多流と決まっていますのでご一緒する時間は長いので楽屋ではよくお話をしました。

 四国の金子五郎さんの催しでもよくご一緒し、松山にいる忠三郎門下の古川七郎と一緒に飲み歩いたこともありました。

 また、毎年春の「菊生の会」、十二月には大阪大学の学生能には間狂言のいるときには私を必ず呼んでもらい、うかがっていました。能のあとには学生連中と一緒に飲んだこともあり、酒飲み友達でもありましたね。

 いつも豪快に賑やかに飲んで楽しむお酒でした。粟谷さんは小さいことにはくよくよせず、お人柄も豪快なお方でした。舞台でも真面目な能を舞われる方でした。能を舞われるときと同じで優雅に堂々と「豪快な侍」という感じの方です。今はそういう方は少ないのではないでしょうか。

 こういうように一年中ご一緒することが多く、また粟谷さんのお父さんの時から私の父と仲良くしていただきました。私が倖一なので、「倖ちゃん」と呼んでもらい、私は「菊生ちゃん」と呼ぶくらい親しい仲でした。

 粟谷さんにはお兄さんの新太郎さんがおられて、私たちは次男同士、息の通じるところがありました。「どうも長男は得で次男は損をすることが多い」と愚痴をこぼすこともありました。

 最近は段々と心やすかった人が先に逝かれるので寂しい限りです。粟谷さんとはお互いに体を大切にしようと約束していたばかりでした。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

追悼 菊生さんを偲ぶ

曾和博朗

 在りし日の菊生氏の面影を思い浮かべ乍お相手の事等考へて居ります。

 菊生さんは一九二二年のお生まれで、私は一九二五年で御座いますので三ツ上の兄貴になります。もっともっと活躍して頂き度いのに誠に残念です。

 昭和二十三、四年頃、山陰でお能の会があり、喜多長世氏(元六平太氏)、粟谷新太郎氏、菊生さん達と夕食の席にてお酒をあびる程飲みました。亡くなる前の日までお酒を飲んで居られた由、わたしもこう在りたいとうらやましく思います。

 舞台ではいろいろとお相手をさせて頂きました中で、私が無形文化財各個指定を受けた記念でNHKのテレビにて菊生先生のお謡で一調一声玉葛を打たせて頂きました。もとより何もかも御存知のお方ですから安心して思ふ存分勤めさせて頂きました。

 二、三年前四国松山で景清があり、ひろちゃん(私)は元気だけれど、手をつかないと立てねんだよ、情けない、と菊生さんらしくない事を言はれました。其の後、能のシテは引退された由、昨年東京観世座にて鵜飼がありシテ友枝氏、地頭菊生氏にて勤めさせて頂き本当に良い地謡でした。これが最後のお相手となりました。

 天国にてよく舞いよく謡い、そしてよく飲んでください。           合掌

 

菊チャンと呼んだ先輩

野村万作

十歳年上ですが、菊チャンと呼ばせていただいていました。

 催し後の宴席などで、「菊生先生がいられたらば、さぞ楽しいだらうに。」と喜多流の後輩の人々の声を聞きます。あの世の方が、だんだん賑やかになり、実先生(菊チャンは壮年期、実先生の影の如き存在でした。)友さんと敬愛していた友枝喜久夫さん、勿論お兄さんの新チャン(粟谷新太郎さん)節世さんなどと、菊チャンは今の能界のあれこれを面白く話して、皆を笑わせているのではと想像させられます。

 粟谷ご兄弟に誘われて、目黒での催しの後よく一緒に飲みました。先輩たちの喧々ごうごうの芸談の渦の中にいられたことは、誠に幸いで、懐かしく思い出します。

 菊チャンは懐の深い人でした。年寄りから若手まで、流儀を超えて誰とでも親しく話し、人に影響を与える言葉の表現力を持っていられました。先輩たちが亡くなったとは言え、いつの間にか能界の頭目としての大きな存在となったのも、その芸は勿論ですが、人柄のしからしむるところでしょう。

 新チャン健在の頃、「次男は長男の三倍の努力!」と同じ立場の私によく言っておられました。あれは菊チャン五十代の頃だったでしょうか。「二朗チャン(私のこと)は兄貴と仲良くて、僕は太良チャン(兄のこと)と仲がいい。面白いもんだね。」そんな言葉もよく聞きました。

 揚幕から顔を出すようにして狂言もよく観ておられ、的確な感想をもらされる。相手の人に即して物を言える、会話の名手でございました。

「花月」のお相手をしたことがあります。シテが、間狂言の肩に手をおいて、共に歩む小唄の動きについて、「君についてゆくから、足数は細かくは決めないでやらう。」と言われ、大変気持よくできたことがあり、後々まで、そのことをよく言っておられました。

 柔らかな心で人との調和を生み出す、芸、人生の達人は、敬愛する多くの人々に送られて、西の空に旅立たれたのでした。

 菊チャン、長い間お導きいただき有難うございました。

 

粟谷先生の想いで

藤田六郎兵衛

名古屋に居りますので中々先生のお相手をさせて頂く機会はありません。しかし有り難い事に粟谷先生の代表曲とされる「景清」を四度、そして地頭をお勤めの時に数度お相手をさせて頂きました。

 舞台の終わった後、あのニコッとされた迫力有るお顔で今日の日吉(ヒシギ)は良かった、あのアシライはこうだった、あそこに藤田流はアシライが有るんだね、または藤田流は吹かないの?と必ず一言声を掛けて戴きました。笛方としては何よりもアシライの事に気を掛けて戴け、ご注意戴ける事が大変有り難く、そして大変嬉しい事でした。

 舞台が終わった後に、今日はお小言かな、笑顔かなとドキドキしつつも声を掛けて戴くのを楽しみにしていたのですが、もう先生はいらっしゃらない。寂しい事です。

 

菊生先生との半世紀

三島元太郎

一九五四年秋、東京駒込にあった染井能楽堂。毎日存分に太鼓を打てた環境は有り難い事この上なしでした。が、金春先生と仲良しの菊生先生が頻繁にご来宅。稽古場でもあったのですが常にお二人の存在は最初から師匠が二人。機会ある毎に的確なアドバイスを頂戴しました。

 偉大な功績の一つは大阪大学での能の指導でしょう。学長になられた岡田実先生のご尽力もありますが、四〇年近く自演能を続け、育った人たちは凡そ二〇〇名に及ぶとか。一流人として社会に雄飛しつつも、声が掛かればすぐに応じて舞える人が何人もいます。学生時代に如何に充実した稽古がなされていたか、ずっとお手伝いをさせていただいた者のよく知る所です。ぴしっとした緊張の持続の中で、時にほっと心を和ませる巧みな指導法は鮮やかなものでした。またこれらの方々が後に能楽を支える客ともなってくれているのです。経済性を度外視した先見のご努力には心底敬服いたします。

 昨年七月能楽座自主公演の後席で、話題は太鼓の撥捌きにも及び、最後にあの天下一品のにっこり笑顔で「元ちゃんあとをよろしくたのみますねえ」横で頷いておられた榮夫さん。爾来あの場面は脳裏を去らない。

 ありがとうございました。                         合掌

 

菊生先生さようなら

山本東次郎

太平洋戦争は能楽会にもさまざまな傷跡を残しました。貴重な面・装束・伝書類はもとより、多くの能楽堂が跡形もなく焼失してしまいました。終戦当時八歳だった私の記憶の中だけでも、その大半の舞台を踏んでおりますので、たいへんな数になります。戦後、都内に残った舞台はたった三つ、「多摩川」・「染井」・「杉並」。戦争のために失った時間を取り戻そうとするかのような各流、各派の先生方の気迫と情熱、それにはまず稽古場としてこのわずかな能舞台をいち早く確保すること、我が家の舞台を使われたのは喜多流と金春流で、喜多流は月・水・金の三日が稽古日でした。

菊生先生とはその頃からのお馴染みでした。私より十五歳年嵩の、いつも面白いことを言って笑わせてくださるお兄さんでしたが、少年・青年時代の十五歳差は一緒に遊んで頂ける仲間ではありません。しかしそれが三十歳と四十五歳ぐらいになると、なんとなく同世代的な意識が見えるらしく、様々なところで一緒のお仲間に入れて頂けるようになったと思います。

 当初は「女性」への心理的な接し方やマナーについて語ってくださいました。また共に年を重ねていくに従って、「老」というものへの心構えや考え方を教えて頂きました。それらはいつも菊生先生の実体験に基づいた反省やら考察やらで、身を乗り出すように真剣な面もちでおっしゃるその内容は、いつも実にユーモア溢れる楽しいものでした。大阪の大学で稽古している女子大生が「センセーッ」と言ってすぐ手を繋いでくれるので「俺もまだまだモテるんだな」って思っていたら、「お足元が危ないから、お気を付けください」との一言に凄いショックを受けて、落ち込んでしまった等々。

 物事は何でも良い面・悪い面の両面があるものですが、菊生先生は常に良い面を選び取り、明るく前向きに生きてこられたのでしょう。「女性」はともかく「老」楽しいものではありませんが、菊生先生に掛かると何でも楽しく思えてくる、いつもそんな風でした。

 菊生先生は喜多流のみならず、能楽界全体の後輩たちの舞台をたいへん気に掛けてくださる方で、時には見所までお出になって、よくご覧になっていました。近頃は私の狂言さえも幕際でよくご覧くださって、いろいろ感想を述べて下さいました。何しろ小学生の時からずっと見て頂いているわけで、特に私の科白の言い回しについて過去からの成長の過程を見知っていらして、それをとても一生懸命分析して、よく頑張って来たと誉めてくださったりもしました。そんなことを率直におっしゃって下さる方は他にはおいでになりません。ほんとうに有り難く思ったものです。

 持ち前の明るさと明晰な頭脳、誰にも愛されるお人柄で能楽界を縦横に席巻なさった菊生先生、心からの御冥福をお祈り申し上げます。

koko awaya