研究公演つれづれ(その十一)

研究公演 第11回(平成12年11月25日)
能夫『定家』と明生『実盛』について

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

『実盛』について

明生 研究公演の第11回は、能夫さんが『定家』、私が『実盛』でした。粟谷新太郎追悼公演ということで、それぞれに高いハードルを課したわけです。それに研究公演も10回を越え、発足のときから目標にしていた曲に挑むという意味合いもありました。

笠井 そうでしたね。それにしても『実盛』と『定家』と、二番とも重い曲でしたね。僕は両方ともしっかり観ていますよ。『実盛』の良かったのは後半、仕舞のところは上手だった。それなりに技術力があり表現力もあると思った。で、それを曲全体に渡らせなきゃ歯が立たないわけですよ。そういう曲ですね。

能夫 そうね。謡いながらも上手に表現しないとね。

笠井 普通は『実盛』には歯が立たない年齢ですよ。あの年での選曲はね。

能夫 それでもチャレンジするというね…。(笑い)

明生 『定家』も『実盛』もそうですが、位の重い曲がただ年を経なければ選曲できないと決めつける閉鎖的な考えはどうでしょうか。演者側からすると「よし充分に出来る、適齢期だ」などと思うほうが、かえって不遜であぶない気がします。まだ早いかなと思ってもそれに挑む気持ちや意欲が重要で、年齢以外の許される条件がクリアーされているならば、どんどん積極的にアプローチする、それが普通で、健康的な思考ではないでしょうか。流儀には『卒都婆小町』など、還暦を過ぎなければ許されないという古来の考えがありますが、それが返って徒(あだ)になっていることが現場では沢山ありますね。近年、友枝昭世師がそれらを払拭して下さったと思っています。『実盛』が老武者だから、単に時間を経た演者でなければなんて、どうでしょうか…。ではいつなら出来るのでしょうか?と質問したくなります。つまりそれまでの修業過程と成果や貢献度などいろいろなものを基盤に含んだ上で最善を尽くす、問題ないと思いますが…もっともこういう考えは流儀以外では通用しないと言われましたが…。

能夫 そうかもしれないけれどね。

明生 でも今の喜多流だからこそ、出来る環境があり。それは多いに良いことだと思うのです。これから大人が何をどのように勤めていくかが、流儀の大事な根幹のように思います。明治、大正、昭和初期に生きてこられた能楽師の思考と現代の平成の能楽師では明らかに大きな溝がありますから、現場がそれに対応する覚悟や姿勢を見つけなければいけないのではと…、生意気言ってすいませんが、そう思うのです。

笠井 明生さんの中で『実盛』の課題は?できたこと、できなかったことはどういうことかな?つまり、世阿弥の言う初心だね。初心というのはできなかったことを積み重ねていくということだから。自分としてはこういう課題をもったけれど、ここまではできて、このところはできなかった、そのできなかった部分のことを初心と言うのです。そしてその時々の初心があるわけですよ。30代のときは30代の、40代のときは40代の、50代のときは50代の初心がある。老後の初心だってある。60代になったら体が利かなくなるから、そのときどう表現できるかというのも初心。だから、その初心を重代すべきだと、重ねていくべきだと言っていますね。

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能夫 なるほど、そうか。

笠井 重ねていくことが、能楽師として終わりにならずに、能を全うできるという考え方なんです。それは本質的なことで、そのときできなかったことに自覚的になれということだと思いますが。

明生 課題としては謡ですね。特に「笙歌遥かに聞ゆ」という一番最初の謡でした。

笠井 あそこが勝負ですね。

能夫 あれで世界がぱーっと広がらないといけないよね。

明生 ある人に「笙歌遥かに、はどういう風に謡うのでしょうか」とお聞きしたら「あれは、田んぼの畔道にいる気持ちで、長閑に軽く謡ったらよろしい」と言われた。それを笠井さんに伝えたら「それじゃダメだよ!」って(笑い)。言うこと全然違うなあ、どうしようかと思いましたよ。

笠井 それはやっぱりね。「笙歌遥かに・・・」には憧れがありまして。作品への憧れと、不浄をいっぱい抱えている人間が到達できない世界への憧れがあるわけですよ。「笙歌遥かに」は人間の距離を越えるわけで、その豊かさでしょ。老女もの、老体ものの豊かさですよ。二曲三体論の中で老体のことを、閑心遠目と言っている(舞歌二曲、老体・女体・軍体三体。老体には閑心遠目、女体には体心捨力、軍体には体力砕心を説く)。心をのどかにして遠くを見る、つまり、心を遠くにして、ふっと放心状態になるの、年をとれば。で、何を見るかというと遠くを見る、過去の思い出に生きるということですよ。それは若い恋でギラギラしているよりは、はるかに豊かなんだ。老女ものを、老体ものを大事にするということはそういうことなんですよ。それは失った時間の大切さ。失った時間というのは若者にはないんだ。若者には先しかない。僕らそろそろ失った時間の方が長くなってきたけどね。

能夫 多くなってきたよ。(笑い)

笠井 それが老女物、老体物を演じる醍醐味じゃないかな。それを観客が見たときに感動する。若者は青春に満ちて、未来がある。それはそれで非常に溌剌とした喜びがある。僕らもそれを通ってきたし、それはすばらしいことなんだ。だけど本当に人間を感動させられるのは、もう終わりに近づいてきた人が、過去の豊かさを今ここに蘇らせてきたときの豊かさなんだね。『井筒』だってそう。序ノ舞で舞っているときは、あれは全部終わっているわけで、あのハイライトシーンというのは完全に失われているんだけれど、それが永遠に見えるんだ。

能夫 わかりますよ。

笠井 『卒都婆小町』でもそうだけど、小町が恋を失って老いさらばえたときに、そこに逆にピュアなものを見るという・・・、だから老女ものは位が高くなる、僕らも感動する。万人が感動するのはジャニーズ系の若くて美しいものかもしれないけれど、ずっしりくるのはこういうもので、失った深さですよ。

能夫 それでは失ったものが多くなった人しか、わからない気がするんですが…。

笠井 それはそうかもしれない。

能夫 それはちょっと嫌だなあ。(笑い)

笠井 若造じゃあ、わからないでしょ。

能夫 20代ではわからないでしょうけれど・・・。

笠井 30代、40代で志があればわかるんじゃないの。

能夫 それを聞いて安心しました。(笑い)

笠井 男盛りの50代ぐらいで、ふっとこういうことがあるというのは大事なこと。20代、30代じゃ、わからないよ。僕らだって実際そうだもの。

能夫 わからなかったよ、本当に。

明生 始めての『実盛』の稽古の時、地謡を謡ってくれた人がワキの最初の「ひとり名を、仏の御名を尋ねみん」を実に軽快に謡うのでびっくりしたんです。シテはあの謡の中でじっくり出て、ふと一ノ松当たりに立って「笙歌遥かに…」となるのです。それで謡の位を教えたのですが…。究極は「君『実盛』という能を見たことあるの?」と聞いたら「ない!」だって。

能夫 『実盛』はそれだけやらないものね。

明生 ですから…見ていないわけですから、謡のスピード、位を知らない状態でした。最近では友枝昭世さんがやられて、それ以前となると、もう新太郎伯父かうちの父、そして友枝喜久夫先生まで戻ってしまう、あの時分の方々は、よくこの曲をお勤めになられていましたね。私のきっかけも、そういうものに対する憧れであったわけですが・・・。その後は友枝昭世さんが演じられ、私は地謡座に居ながら、いつか自分もと思っていました。昭世さんのあとは誰も手をつけていなかったのです。

笠井 能夫さんはやられましたか?

能夫 まだです。

笠井 やろうとは思わない?

明生 今度。来年の粟谷能の会で予定しています。

能夫 予定していますよ。時節到来ですよ。

明生 失った時間が多いから……。(笑い)

笠井 適齢期だね。(笑い)

能夫 そういう適齢期というのはあるね。

笠井 栄夫(観世栄夫)さんがこの間『実盛』を勤められたけれど良かったよ。病気したあとだから。病気する前はやろうという気が見えちゃってね、でも今回のは病後でそういう意味の体力はなかったけれど、何か伝わって来ましたよ。ああいいなと思わせるものがある。

能夫 ありますね。

笠井 能はありがたいことだよね。その年々に、そういう曲が待ってくれている。

能夫 そうですね。

笠井 西洋のものは青春の美学だから。バレエだってオペラだって、60、70になって、声が出なくなってはありえないでしょ。だから盛りの美学なんだよね。年をとると演出家とか振付師に変わっていく。生涯現役というわけにはいかない、できないし無理だもの。そういう世界だからね。その点、日本の古典芸能は老いというものを大事にしているからね。

能夫 それは幸せなことだなあ。だから50になっても60になっても、みんな元気なんだな。輝いて、目標をもっている人は楽しく生きている。そういう面では若い人が『実盛』を手がけておくのも悪いことではないね。一度手がけておいて、またやるというね。明生君はそういう主張だけど。

明生 父とか新太郎伯父だって、それほど年になってから勤めているわけではないでしょ。

能夫 菊生叔父は50歳になってからでしょ。うちの親父は40代で披いているような気がする。

笠井 明生さんは40代初めぐらい?

明生 平成12年だから44歳ですね。

能夫 でも昔の人からしたら、もう何でもやっていい年ですよね。

明生 最近は全体に遅くなっているから、幼くなったのかなあ。

笠井 銕仙会でも40代では『実盛』は許していないよ。

能夫 40代には他にやることもあるしね。

明生 適齢期という発想も判らないではないのですが…。当日の番組を見ると『実盛』の地謡は『定家』を父が地頭で友枝師が副地頭でしたね。『実盛』は出雲康雅さんに地頭をお願いしました。難しいこの大曲を若造が勤めるのに、快くおつきあいくださって感謝しています。囃子方も私の気になる若い方と考え、小鼓は九州から飯田清一氏をお迎えして、大鼓は亀井広忠君にお願いしました。皆「え…実盛」と言葉が返ってきましたから、いかに特異なことかは、その時も実感しました。

笠井 それで、自分の課題としては何があったの。初心は?

明生 先程も申したように、謡ですね。父が稽古を見てくれた時に「謡で一番難しいと思うのは、『実盛』のサシコエだ。あれが謡えれば」と。あの一番最初の「笙歌遥かに・・・」のところですよ。「あそこが難しいんだ。『葵上』も難しいが技術でこなせる『実盛』はそうはいかない」と。「お前のは謡を作っているから駄目なんだ」と言って「笙歌遥かに・・・」とバーッと謡い出すんですよ。「こういう風に謡えばいいじゃないか」と言われましたけれど、それがなかなか真似できないんですよ。

笠井 それは内的なものと声が一体化しているんだよ。それを声だけで聞かせようとするとできない。そこが課題なんだよ。ただ、あなた方のお父様たちの世代はそれを方法化していないわけですよ。いつの間にかそうなっている。先人のを見ていて、こうかな、どうかなとやっているうちに内的なものも入っていって、自分の位もできてしまう。

能夫 できてしまうんだな。教えられたわけでないのに。

明生 だから、我々には説明不足になる・・・。

能夫 自分の工夫もあるだろうけれど、兄貴はどうやるんだと言っているうちにでき上がって、それを疑わないところがすごいんだよ。

笠井 それができちゃった世代。おそらく最後の世代だよ。銕仙会は寿夫さんのころから、教え方の方法論をもってきているけれど、でもそれを最後やるのは役者だからね。それは技量だから。理屈だけではないよ。ところで、『実盛』は動きの方は特別な意識はしたの。

明生 「爺々臭くやるなよ」と言われました・・・。

能夫 そうだね。でも老体というものは加味されていくわけでしょ。

明生 そうですね、わざとらしくならないで老体が加味されればいいのでしょうが。後シテの出の後の大ノリのところがどういう仕組みなのかとひっかかりました。「南無と言っぱ」「即ち是帰命」「阿弥陀と言っぱ」・・・というところ。ただ定型パターンで動くだけではなく、そこに大ノリがある根拠みたいなものがわかりたくて…。「即ち是帰命」という謡が体に染み込んでくる、踊り念仏のような感じがあるのは理解出来るのですが。

笠井 踊り念仏が基本になっている。

能夫 能の方が洗練されているかもしれないけれど、世阿弥はあそこに踊り念仏のようなものを導入したかったと思うよ。あそこに大ノリが入っているということは。

明生 寿夫さんが言っていらしたと聞いていますけれど、短い大ノリ地のリズムを入れることで、ドロドロした執念の強さみたいなものが表現したいと。3行ぐらいの短い謡の中に。

能夫 そうねえ、滔々というか。こういうのは『鵺』でもそうだし、『朝長』『通盛』にも共通しているね。

明生 あの大ノリ地は太鼓の全責任で乗って打ってくれるといいと思うのですが。

能夫 そうだね、打ち手のすごさで、繊細に鮮烈に印象づけられるところだね。

明生 課題が発見出来、やり残したこと、やれたこと、初心に触れたことが『実盛』という曲で充分吸収できたと思っています。あの大曲が勤められたという環境に感謝しています、すごくラッキーでした。

能夫 それはすごくラッキーでしたよ。

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『定家』について

笠井 能夫さんの『定家』はどうでしたか。

能夫 『定家』はね、憧れはあったし・・・。『定家』に対する憧れ、憧れだけですよ。
やりたい、やりたいで。自分がそこまで成長したからではなくて、とにかくあの曲に携わってみたい。一番大事にしたのは精神性ですね。技術で立ち向かうのではなくて、誠心誠意、自らを傾けて勤めたいな。そういうことが『定家』に通じると思うのですよ。ある意味では。

笠井 それはそうだね。そういうものが伝わって来た記憶ははっきりありますよ。ただ、流儀としての練り上げ方と能夫さんの思いが、一種・・・。

能夫 ちぐはぐ・・・。

笠井 そういうのはありますね。それはでも、あなたが背負うべき課題だからね。

能夫 そうですね。

明生 それは具体的には?

笠井 自分の課題に引き寄せていかないと。地謡も含めてね。

能夫 運びとか、序ノ舞の考え方とか、そういうものをあるとき自由にやらせてもらいたいと感じることもあるし・・・。

笠井 締めつけみたいなのはあるの。

能夫 抵抗はありますよね。でも舞っているうちに体が、こう動いちゃうんですよ。性(さが)といおうか、そういうものを抱えちゃっているんだなあ。

明生 昭世さんも言われてますね、何か試みてみようとすると先人の魂みたいなものが出てきてね・・・って。

能夫 そこであがいて・・・。

笠井 そういう抵抗があった方がいいと思うんだ。ただの序之舞じゃダメですから。

能夫 そうそう、そういう表現はね。でも、この曲は毎年舞ってもいいんじゃないかと思えるような曲だった。力がある人なら、毎年舞ってもいいんじゃないの、そういうのわかる気がした。消耗しない、嫌にならない、この曲は。だから毎年、能夫の『定家』を見る会を誰か作ってくれないかな。いや本当に、そういうことやりたいなと思った。(笑い)

明生 そういう企画みたいなものにお世話になりたいですよ。(笑い)

笠井 大きい話だね。(笑い)

能夫 そういう曲だよ。ああもやりたい、こうもやりたいというのが、後から後から立ち上がってきますもん。

笠井 じゃ、そろそろまたやらなきゃ。

能夫 もう、そうだねえ。もう『定家』でいい、ずーっと(笑い)。とにかく『定家』という曲は、はまる曲です。

笠井 別格だものね。つまらない『定家』を見ると、演者がこの曲にはねつけられているとはっきりわかるし。そのよさが分かってやろうとしている人じゃないと、何も伝わってこないよね。

明生 はねつけられている現場に遭遇すると、恐ろしくなりますよ。『野宮』『定家』などでね。

能夫 伝わってこないよね。それをはっきり感じた曲です。毎年やってもいいな。

笠井 新太郎さんの追善だったから余計、そういうこともあるよね。

能夫 うちの親父もやっているしね。そのとき僕もいろいろ携わっているからね。

明生 そういう意味では、今回は二人ともかなり高いハードルであったと思いますよ・・・。

能夫 そりゃそうだよ。僕だって、この年代でやるのはとんでもないことだと思ったよ、『実盛』も『定家』も。そういう状況にあって、でも防御体制もあって、うまく挑むことができたけれど…。それはでも、これまで僕たちが真摯に取り組んで来た証しだと思うんですよ。

笠井 それはそうだね。僕もずっとお二人の能を見て来て、ここのあたりから、一つ深度が違って来たという感じがしますよ。曲のスケールも違って来たし。

能夫 スケールは違うよね。手に負えないんだけれど・・・。

笠井 喜多流なら、この年でこれをやるという範疇を越えているものね。それで能楽師としての普遍的というか、生涯の課題とういうものが具体的になり始めた。

能夫 『定家』は本当にそうですよ。それは痛いほど感じました。寿夫さんの写真見ると、面は増女でなさっていたり、いろいろとあるじゃないですか。

笠井 痩女を使ったりもしてね。

能夫 本来は泥眼でしょうが、痩女でもいいし、増女でもできないことはない。僕も3回ぐらい勤めたいですよ。

笠井 増女で1回はね。それにはそれに耐えるだけの許容量というか、幅が必要だけれど。

能夫 そう、やっぱり一度増女で、あの世界を作ってみたいと思いますよ。いい曲だよね。こんなにすばらしい曲はないと思う。そういう曲に自分を委ねたというか、遊ばせてもらったことに、とにかく感謝、感謝という感じですね。

(平成16年 3月 寿司すずきにて)

写真 実盛 シテ 粟谷明生 撮影 石田裕

   定家 シテ 粟谷能夫 撮影 東條睦

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