我流3 ── 子方から青年期 ──

明生─ 少し話が前後しますが、初シテについても触れておきたいと思います。私は八歳で『猩々』でしたが、その時のことを思い出すとどうも、特別その為の稽古が長く続いたという記憶はなく、それまでの中之舞の稽古が出来たから、ではその続きでというふうに教えられたように思います。自然の流れで出来たという感じかな。特に覚えていることと言えば、実先生から鏡の間の前で「明坊ここに座るんだよ」と言われたことで、どんなに沢山子方を勤めていても鏡の間で床几に座るということはなかったですから、その時はちょっと偉くなった気分で、結構気持ち良かったことを覚えています。しかし当日どのように舞台を勤めたかはあまり思い出せないです。たぶん全く無意識というか、プレッシャーも何もなかったんじゃないですか。
能夫─ 僕は『経政』で九歳だったけど、中村町の実先生の舞台で一緒になって、まさに手を取り足を取りお稽古を受けたことを憶えている。この時の舞台は宮島の厳島神社で、役へのプレッシャーと旅の疲れとでやはり熱をだしてしまい、熱をおして勤めた記憶がある。いまでも宮島の野外の舞台の感じを憶えているな。一カ月後には東京の昔の目黒の舞台でやり、二回晴れの舞台を勤めさせてもらい、シテをやる豊かさ喜びを教えてもらいました。多分父親も初シテは『経政』で宮島だったんだろうけど、今にして親の想いと配慮を感じます。
明生─ 初シテを勤めて感じたことは、シテは幕が開き、歩み始めたら留拍子を踏むまでずーっと動き放しなんだということ。子方ならば普通要所要所の動きがあっても大半は相手役としてじっと座っていることが多く、このずーっと動くという経験は初めてで、結構喜んでいたみたいです。
能夫─ まあそういう意味では親の段取り通り育てられたと言うことかな。
明生─ 子方時代後半から青年期にかけては、いわば半端な時期に入るのですが、この頃は前にもお話ししたように、謡の理論が解らないとか、声の問題とか、このままこの職業をやっていくのかとか、様々な問題にぶつかり、悩んだりしていましたが、とにかく、やるやらない、好き嫌いに関係なく、十番会という稽古会が毎月あり、月に一番ずつ、とにかく覚えて、大人と一緒に舞囃子の稽古を受けさせて頂いたわけですが、この時期に舞の基本を徹底的に教え込まれたことは今の自分に大変役に立っていますし、自信にもつながりますね。表舞台には立てないけれども、このように継続していくということが大事なのかもしれません。地味な時期ですが、大切な時期でもあるようです。やはり誰かの段取りにはまっていたのかなー。
能夫─ 初めて面をかけたのもこの頃かな。『田村』のシテだったと思うけど、特別なプレッシャーがあるという感じではなかった。仕舞のままで面をかけたというか、普段稽古している姿にたまたま面と装束とが付いたという感じ。
明生─ 私は青年喜多会での『嵐山』のツレ、勝手明神で初めてかけました。やはり本番でいきなりという感じでしたが、プレッシャーなんか無かったです。ただ視界が制限されて見えにくいので、お相手の方と揃っているかどうかだけが不安でした。
 お囃子のホウホウヒのヒで足を揃えるとか、何々という言葉で動き出すとか、非常に細かく型を決めさせられたのはこの時が初めてです。それまでの子方では、ある程度自由に一人で演ずることができましたが、ツレ同士、念入りに打ち合わせをして舞台に臨むという経験は初めてでしたね。
 その面をかけるための準備で、面当てをつけたり、面紐つけたりで、例えば面紐を通すときもいいかげんにつけていると、「耳のあるものは内側から、耳のないものは外側から通すんだ」とか、「小面の面紐は紫色を使うのだー」などと楽屋の現場で廻りの先輩がいろいろと教えて下さるということもこの時期から始まったんじゃないかな。
能夫─ 僕は面を見ながら育ったから、かえって無意識だが、面を大事にするとか、彩色の部分には触れないとか、自然に身についてきたように思う。なにせうちの父は面を手に入れて来て、それをかけたまま眠ってしまって、母がそれを見て仰天したという逸話が我が家にはある位でね。子供の頃から面にはなじんでいたし、また女面には興味と憧れをもっていたように思う。ただその頃は般若が女だとは全く知らなかった。やはり、今頃になってああ恐ろしい、やっぱりそうなのかと理解できた(笑い)。
明生─ 面の話で、子方の最初の頃『船弁慶』をやっていて、後シテの気迫と凄さに、思わず本当に切られてしまうのではなんて思ったことがありました。その時の面が怪士だか三日月だかわからなかったですが、終わった後にその面を見て、こいつが僕のことをびっくりさせたのか、でもそのうち僕がこれをつけてやるからな、なんて思ってましたよ。
能夫─ 面をかけた最初の『田村』の舞台写真を見て悲しいのは、面装束をつけている姿がだらしないというのか、ともかく貧相でしょうがない。こんなはずはないと思うけどやっぱり身体としても大人になっていないことと、同時に芸としても構えが未熟なせいと両方あるんだろうな。
 それからこの時期、後見をやらされたことを記憶している。十五、六歳だったろうか地謡にも付けられない半端な年頃だったと思うけど、足が痛いななんて思いながら座っていた。その頃で忘れられないのは、『土蜘蛛』で舞台の蜘蛛の糸を巻き取ったり、切ったりの始末をして、後で叱られた。多分やるタイミングとかやり方が舞台にそぐわなかったのだろうけど。その時舞台での動きというものは簡単には出来ないのだと思い知らされた。また実先生と一緒に塩津さんの『吉野静』の後見をしていて、塩津さんが途中で胸が苦しいと実先生に訴えて、先生が「いつでも俺が代わってやるから」といっていらしたのを覚えている。今にして思えば、舞台の善し悪しもよく解っていない時期に、ともかく舞台に居させることで、後見の位置とか覚悟のありようを教わったのだろうと思う。
明生─ 私はその頃からよそ見の時期が続いて、この世界に何となく魅力を感じなくなって、後で聞くと廻りの人は相当心配していたみたいですね。
能夫─ その頃は僕らも苦労したよ。明生君が能の方を向かないものだから、食べ物処とか飲み屋に誘って何とかこっちを向くようにと努力した。
明生─ 無駄のないまっすぐなコースを通るのが良いのでしょうが、右や左とよそ見をしては、他のことに気持ちがいってしまう時期を経験した私は、かえってその分、これだというものにぶつかったとき、その反動で、がむしゃらに没頭できたし、またその頃自分の流儀に疑問を感じていたことが、他流の同世代の人達の舞台を見ることにつながり、他流の友達との交流が出来大いに刺激を受けることができました。それが今日の自分に繋がっていると思います。
能夫─ 確かに自分の流儀の枠のなかで自足していては駄目だよな。僕の場合は観世寿夫の能と出会って以来、もっと能のことをかんがえましょうと言い続けて来たからね。その頃かな十番会で『采女』の舞囃子をやったとき、親父から「能夫はもう出来上がった。私の手を離れた」と実先生が言われたと聞いた。この頃寿夫さんとの出会いがあって自分の能の方向を模索していた。

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