我流37 『白田村』 『融』について

我流『年来稽古条々』( 37 )―研究公演以降・その十五―『白田村』 『融』について

明生 今度の粟谷能の会(平成二十八年三月六日)は九十九回、その次は記念すべき百回となります。

 

能夫 早いものだね。昭和三十七年に父の新太郎と菊生叔父の二人で、粟谷兄弟能として始めてから五十二、三年、およそ半世紀になるね。後に、僕らを舞わせようというので、兄弟能を粟谷能の会と改名したのが昭和五十六年。僕たちが一番ずつ加わると四番になってしまう、それはできないからと、春、秋の年二回にして、僕らにそれぞれ年一回は舞えるように、機会を作ってくれたんだ。それをしばらく続けて、父が舞えなくなってからも、年二回、菊生叔父と僕らで三番の番組を続けてきた。

明生 そして父・菊生が亡くなってからは、私たちで、やはり年二回、二番の番組で続けてきました。それで今年、九十九回、百回とするはずだったのですが…。

 

能夫 明生君も還暦を過ぎたし、二十八年からは年一回にして、一回一回にじっくり取り組みたい、そう思うようになってきたんだよ…。

明生 それで今年が九十九回、来年、平成二十九年は第百回公演となりますね。では、今回は九十九回公演で勤める曲について話しましょう。初番『白田村』能夫、そして『融』私、としましたね。

 

能夫 『田村』は割に好きな曲、父も好きだったなあ。あの溌剌とした感じに惹かれるのかなあ。

明生 父も『田村』とか『八島』とか好きでした。独特のスケール感がありますからね。今回は『田村』ではなく『白田村』、能夫さんは既に何回か勤めていますよね。

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能夫 宇都宮、秋田、青森、横浜でもやっているが、東京ではやっていない。だから一度やっておきたいと思ってね。

明生 『田村』の上に白を入れて曲名を『白田村』とするのは喜多流らしいと言えるのでしょうか。白を演出のキーワードにするならば、小書として「白式」でもいいのに、あえて曲名に白を入れてしまう大胆さ。いや奇抜ですね。

 

能夫 白を強調したいという意識だろうが、後発の流儀・喜多流としては、何か変わった目立つことをして、アピールしたい意図があったと思うね。

明生 『白田村』とか『白是界』とか、白に対する意識がありますね。最近では青の『青野守』とか。「乱」も『猩々乱』ですから、曲名にこだわりがあるのでしょうか。

 

能夫 それだけ、喜多流としては思い入れがあるということだろうね。『白田村』では前シテの面は「童子」で変わらないが、後シテは「天神」になるでしょう。今回はスケール感がある「大天神」を使うつもりでいるよ。

明生 面が「天神」に変わると、軍体から神体へとイメージが変わりますね。天神は重厚感がすごく出ますし、やはり神を感じさせてくれます。

 

能夫 修羅能から神能に近いものにしてしまうね。

明生 脇能ともちょっと違うポジションですが、修羅能とも違う、何か面白い特異な感じですね。

 

能夫 天神をかけると、謡や型、表現も全然違ってくるね。『田村』の後シテの面は常は「平太」でしょう。「平太」をかけるときとでは世界観が全く違ってくる。「平太」は「天神」と比べると何だかのっぺらぼうで品もやや落ちるし、スケールも小さいから。

明生 「平太」は人間くさい感じがありますね。もちろんその良さもありますが。

 

能夫 だから、それをかけたときと同じように舞ってはいけないでしょう。そういう格を上げる意識を強く持たなければいけないと思うよ。

明生 もともと『田村』という曲はそれほど修羅能的ではないですよね。前場は春爛漫の桜を愛で、田村麿の創建といわれる清水寺縁起と、名所教え、「春宵一刻値千金」の世界ですから。後場も、征夷大将軍として「東夷を平らげ、悪魔を鎮め」と、修羅能的な暗さはないですからね。

 

能夫 一種の明るさがあるね。前場は信仰の讃美歌的なところがあってちょっと特異。修羅能かと言われると、その部類じゃないよね。霊験能とか奇瑞能という感じがする。

明生 『田村』という曲はもともと神格化されたものがあるので、『白田村』の演出はむしろ曲趣に合っていますね。

 

能夫 本質をついていると言えるよね。いつだったか、先代・観世銕之亟師が『田村』をなさったとき。桜の無い時期で、舞台の四本柱に桜の立ち木をくくりつけてなさった。視覚に訴えることは大事だな、そういうところから入っていかなければいけないロケーションもある、と感じたことがあったよ。

明生 屋外の能、たしか秋でしたね。先生が、いくらなんでも、こんな時期に、桜を想像しろ、と言っても無理だよな。変で奇抜だと思うかもしれないけれど、こういうことをしてお客様の心をつかむことも必要な場合があると思うよ、っておっしゃっていました。

 

能夫 僕もよく覚えている。すごい発想だよね。曲に対する洞察、深いものがあるね。舞台は勤める者の自己満足で終わるのではなく、やはり、お客様に満足してもらわないといけないからね。すごいなと思った。

明生 『田村』は割に若いときやらされますよね。

 

能夫 そうね。『田村』からだね。『八島』はなかなか許されなかった。『田村』は若いときにできる、言ってみればそれほど大曲でもないし。だけど、それだけで終わってはいけないんだ。

明生 そうですね。ところで『田村』は東北を征伐に行く話だから、青森などではやりにくくないですか。 

 

能夫 そんなことはないよ。青森の「ねぶた」の題材は田村麿が多いんだよ。征夷大将軍は蛮族を平らげ、新しい天地をつくってくれた人だから。毘沙門天のなり変わりとして祀られていたり、悪いイメージではないよ。

明生 なるほどね。では『融』の話にいきましょう。私『融』は「妙花の会」で披いて以来、今度が二回目です。後シテ(源融の霊)の面は中将で、通常は面をつけ初冠を被るだけで、頭は「素」のままです。これがどうも見栄えが悪く、リアルに役者姿が見られてしまうのは、観る側が夢の世界に入りにくいと思い、披きでは黒垂をつけました。喜多流では初めてのことでした。

 

能夫 「素」では妙に生な感じになるからね。夢幻能だから、あまり生はいただけないですよ。観世寿夫先生が『融』を舞われるとき、野村萬先生が喜多流の『雷電』替装束のように黒頭で出来ないか、と提言されたらしいよ。それで寿夫先生はいろいろ工夫されて舞われたようだね。

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明生 源融という人、光源氏のモデルになったぐらいの貴公子で、河原の院を造り、栄華を極めた人ですよね。

 

能夫 嵯峨天皇の皇子で皇位継承権ももっているぐらいの人だった。陽成天皇が退位するときに、皇位を望んだけれど、藤原基経に阻まれて望みは果たされなかったんだ。

明生 融は皇位につけなかった腹いせでもないでしょうが、贅を尽くした河原の院を造りますね。海の無い地に、難波の方から潮水を汲ませ塩を焼かせるのですから贅沢、お遊びもスケールが大きくてすごいですね。

 

能夫 そこで曲水の宴を催したり、遊行に明け暮れる。まるで源氏物語絵巻の世界だね。しかし、その贅沢三昧の河原の院もあとを継ぐ人もなく荒廃してしまう。

明生 つまり、融という人は皇位につけなかったこと、栄華の象徴の河原の院も廃墟になったこと、この二つの喪失感を抱えて、能の舞台に現れる感じですね。

 

能夫 今昔物語では、融が河原の院に亡霊となって現れ、宇多上皇に取り付く話があるよ。

明生 河原の院といえば、源氏物語の「夕顔」の巻で、夕顔が物の怪に取り付かれてあっけなく命を落とす場所です。源氏物語の物の怪は六条御息所のようですが、河原の院というのはそういう不吉な場所ですね。

 

能夫 だから昔の能『融』は鬼能的なものだったらしいね。それを世阿弥が今のような夢幻能にしたようだよ。

明生 観世流の小書「舞働」などは、その鬼能的な要素がちょっと入っているような気がしますね。

 

能夫 反映されていると思う。強い感じがね。面も怪士(あやかし)系をつけたり黒頭にしたり、幅が広がるよね。あれだけの執心があるから、きれいごとではいかないのだろうね、本当は。でも今の形で収まっているところが、現代にはいいのかも。

明生 ワキは旅僧ですが、特に読経もしませんし、宗教性が薄いのが、ちょっと特異ですね。

 

能夫 シテを河原の院という廃墟に立たせ、月下で舞を舞わせる、それで深い執心、喪失感を表現するというのは、世阿弥の仕掛けなんだろうね。詞章はすばらしく良くできているし、舞もいろいろ工夫できるし、小書も多いし、イメージが広がるなあ。

明生 ところで、一声で出て、常座で一度後ろを振り向き、幕の方を見てから謡いますよね。

 

能夫 あれは喜多流独特のものだね。

明生 披きのとき、意味もわからず型通りにやっていましたが、あとで、月を見る風情と知りました(笑)。

 

能夫 月が出る気配を感じて振り返り、「月もはや出潮になりて」と謡い、あとで「月こそ出でて候へ」となる。

明生 月がキーワードになりますね。冴え冴えとした月を背景に老いの寄るべなさ、すべてを失ったものの悲哀。

 

能夫 この曲に流れているのは「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」の心だね。これを月の詩情とともに表現するんだ。

明生 前場のシテは融の化身といっても老翁ですから、落ち着いて陰りがある感じ。後場は融の霊が在りし日の姿で現れて、栄華を極めた河原の院での日々を述懐し舞い遊ぶわけですから、若者の風情で颯爽と。

 

能夫 それでも、後場でも絶頂期からだんだん落ちていく陰りみたいなものが舞の中にないとね。観世流の小書「舞返」はとことん舞う演出で、ちょっとやり過ぎな気がするけれど。舞っているうちに陰りが出てきて月も新月になっていくような風情がほしいよね。

明生 陰りですね。今回は小書にこだわりたくなくて、自由に舞いたい、と思っていたので、「クツロギ」を入れても、後半あまり派手にならないように心がけます。

 

能夫 明生君、『融』は若いときに一回やったきり。そして四十、五十、六十歳と人生経験を重ねてきたわけだから、二回目といっても、もう集大成的な『融』ができる歳だよ。万全の準備をして味わい深い『融』を見せてほしいなあ。

明生 大人の『融』をやらなければいけないですね。

 

能夫 ところで昨年、明生君は六十歳になり還暦イヤーだったね。直面に挑むとして『正尊』や『安宅』「延年之舞」を勤め、六十歳を記念する本も考えているらしいね。

明生 国立能楽堂で『松風』を異流競演できたことも心に刻まれています。本もまとめましたが、あくまでも区切り、通過点での記録を残したい、との思いです。能の世界では、還暦は若造がちょっと大人になったぐらいの位置ですからね。能夫さんは還暦のとき何か意識しましたか。

 

能夫 あまり考えなかったなあ。還暦のとき、宮島で『翁』を勤めて、これは宇宙のめぐり合わせかなと思ったぐらい。年齢で唯一意識したのは二十一世紀になるときだよ。五十一、二歳のとき、新しい世紀への期待があったね。能でいえば、六十歳になると、何を舞っても文句を言われない、そういう年齢になったということでしょう。『卒都婆小町』をやりたければ挑戦したらいいよ。

明生 六十歳になる前に一度『卒都婆小町』に挑みたいと思っていましたが、実現出来ませんでした。能夫さんは六十歳になる前に披いているし、早めに披いて、再演して完成型にする、というのが持論ですから、私も同様に、と思ったのですが。父もいないし、早く友枝昭世師に教えていただきたいという気持ち、焦りがありました。実現出来なくて、正直挫折感も味わいました、でもそれを肥やしにして…と思っていたら、その後、ある方の『卒都婆小町』を見て、誤解してほしくないのですが、加齢すればふとできてしまう部分があることがわかって、それからそんなに焦らなくてもいいかなあ、とも思えるようになりまして…。

 

能夫 還暦過ぎたし、これからは思うようにやったらいいじゃない。老女物やその他にも課題はたくさんありますよ。

明生 そうですね。能楽師は生涯現役、老いても課題があるという幸せの境涯です。還暦を新たなスタートとします。

 

 

『白田村』 後シテ 粟谷能夫 (撮影 吉越 研)

『融』 後シテ 粟谷明生( 撮影 三上文規)

『雷電替装束』 前シテ 粟谷明生 (撮影 吉越 研)

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