阿吽30 「より上るは四十以来」 粟谷能夫

 写真『鞍馬天狗白頭』シテ 粟谷能夫(平成 22 年3月7日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店

写真『鞍馬天狗白頭』シテ 粟谷能夫(平成 22 年3月7日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店

世阿弥の花伝書には、序文のすぐ後に「年来稽古条々」の項があり、ある年齢を示しながら、どのように芸を極めていくかが述べられています。三十四、五のところでは「この頃の能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究め悟りて堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得つべし。若し、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思う程もなくば、如何なる上手なりとも、いまだ真の花を究めぬ為手と知るべし。若し究めずば、四十より能は下るべし。」とあります。上るは三十四、五、下るは四十以来とは厳しい決めつけ方です。この年来稽古条々には「此の芸に於て大方七歳を以て初めとす」とあり、二十七、八年を一応の芸の修練の段階として要求しています。

花伝書の第一「年来稽古条々」から第三「問答条々」までは、世阿弥が三十八歳ぐらいに著したものといわれています。将軍・足利義満の庇護も厚く、世阿弥の絶頂のとき、自信もあり、本当の名人はこのあたりで極めておかなければという実感もあったでしょう。続く四十四、五、五十有余の年代は世阿弥にとって未知の世界で、父・観阿弥の生き方を観察し、尊敬をもって著したと思われます。

世阿弥時代と現在では諸条件の違いもありますから、世阿弥の示す年齢に多少のずれがあるかもしれません。しかし、ある年齢までに技と心を磨き上げなければ、その後に真の花を究められないというのは、真実でしょう。

ただ、「四十より能は下るべし」というのは、世阿弥の「もし究めなば」の条件付としても、私はむしろ「より上るは四十以来」ではないかと思います。能や謡の素晴らしさや豊かさが分かってくるのは世の中が見えてくるのと同時進行のような気がします。舞や謡に対する探求心も湧き上がり、よりよい演能へとつながって行くのです。

そんな頃、父より「謡は上手に謡おうと思ってはだめ。悪しからぬように謡いなさい」と教えられました。これは稽古を重ね、節廻しをはじめ、謡の表現しようとするところを自然体で謡いなさいと云っているように思います。悪しからぬように、或いは癖の出ないように、そういう意識が段々とれて、自由に謡えたらよいのだと思います。

息つく暇もない世の中を生きて行くには、何か趣味をもつのはよいことだと思います。どのような道でも、向上心を正面に据えて、立ち向かわなくてはいけないのでしょう。能楽師の道とはちょっと違う面もありますが、人生経験を積み、精進していれば、「より上るは四十以来」ということを、ふと感じられるのではないでしょうか。

koko awaya