阿吽30 『定家』を勤めて 粟谷明生

阿吽30 『定家』を勤めて
―虚構の世界にみる真実―
粟谷明生

 『定家』シテ 粟谷明生(平成 22 年3月7日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

『定家』シテ 粟谷明生(平成 22 年3月7日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

粟谷能の会(平成二十二年三月七日)で『定家』を披らかせていただきました。五十四歳の披きは流儀としては幾分早く、このような恵まれた流儀の環境に感謝しています。

『定家』で思い出すのは、子どもの頃に「藤原定家と式子内親王は生きた時代が違うから二人の恋などは架空の話。でも能ではその嘘を承知でやればいいの」と話してくれた父の言葉です。もう四十年以上前のこと。余談ながら父はこの曲を勤めずに他界しています。

能『定家』の物語が史実に基づいているかどうか曖昧だった時期もありましたが、冷泉家の「明月記」(定家の日記)が世に公開され、治承五年に藤原定家二十歳、式子三十三歳の記載があったことから、十三歳の年齢差が判りました。式子は五十三歳で亡くなり、定家は長生きで八十三歳の長寿を全うしたことも確定しました。しかし、能で語られるような二人の関係はなかった、というのが今の時代の定説です。父の「生きた時代が違う」という言葉は正しいとはいえませんが、たとえ二人の間に恋する関係がなくても、能には定家が式子内親王に恋慕して止まない心境が描かれているのであって、「能役者は嘘を承知で謡本通りに演ればいい」という父の言葉に間違いはなく、今でもあの時の事が頭から離れないのです。

『定家』の曲名は当初『定家葛』でした。しかし時が経ち「葛」の一文字が削られると、植物・定家葛よりも藤原定家という人物像が演者にも、また観る側にも強くクローズアップされるようになりました。そのため『定家』という能でありながら、何故、舞台上で定家の存在感があまり感じられないのか…という疑問やご感想などをお聞きすることになりました。「定家の執心、葛となって、この御墓に匍い纏いて…」と謡うと、定家の執心を葛という植物に置き換えた金春禅竹の着想の面白さに感心させられます。

似たような曲に『西行桜』や『遊行柳』があります。これらはワキ役が西行法師や遊行上人という人物で実際に登場しますが、『定家』では、藤原定家を登場させずに、その存在が

 

気になる…とさせてしまう、これが能『定家』の面白さ、深さで、作者の意図したところだと思います。

そのようなこともあり、今回は作り物の塚に付ける定家葛に拘って、新たに葛の造花を作ることにしました。葉の大きさは本物の定家葛の葉と同じにし、緑色の葉と紅葉した葉を取り混ぜて構成してもらうよう、フラワーデザイナーの小島真佐江氏に依頼しました。引廻を付けた前場では常緑の葉を匍わせ、引廻を下ろすと上部は緑色、下部に下がるにつれ徐々に紅葉していくようなグラデーションをきかせてみました。また従来のように定家葛を作り物の柱にグルグルと巻き付けるのをやめ、匍う感じを出すために、付け方も糸で止めるやり方にしました。

抽象化されている能の作り物ですが、あまりに実物とかけ離れていているものは観る側の想像に支障をきたします。と言っても演能後に映像で見て、舞台装置として考えた時、もう少し葉が大きい方が舞台効果が上がったかもしれない、匍い方ももう少しだったかと、やや悔やんでいます。

喜多流の『定家』は高位の重い習物として扱うため、他流が前シテに若い女性の面「増女」などを使いますが、喜多流は「曲見」を付け中年女性で演じます。また後シテは他流が「増女」や「泥眼」を選ばれていますが、喜多流では悲壮感の強い「痩女」を決まりとしています。

前シテの「曲見」は式子内親王の亡霊を中年の女性とすることで曲の位を高める効果がある反面、演者にとっては落ち着いた中年女性の雰囲気を身の構えと謡い方で演じる必要があり、難易度が上がり苦心するところです。

後シテの「痩女」は、頬の肉が落ち、目元もこけて目は虚ろ、苦悩し疲れ果てている表情で、式子内親王の苦悩を最大限に発揮します。喜多流では「痩女」を付けるとき、特殊な「切る足(一歩一歩細切れのように動く歩行)」を組み合わせる習慣があります。これは足の扱いのさじ加減が難しく秘伝とされています。先人たちはかなり過剰に一足一足を躓くかのように演られていましたが、若い時分に拝見して「なにもあそこまで、よたよたのお婆さんにならなくてもいいのに…」と、生意気ながら思ったものです。近年、友枝昭世師は過剰気味の運びにメスを入れられ、単なる老いの動きだけではないものにと改善されました。私も、稽古当初は出来る限り普通の運びにと挑みましたが、不思議に「痩女」の表情が思い浮かぶと、それは出来ませんでした。これも面の力のなす技なのかもしれません。

私の勝手な好みですが、「痩女」の面は、どんなに痩せこけた表情でも貧相であってはいけない、と思っています。「昔はさぞお綺麗だったでしょうね…」という面影が残っていてほしいのです。痩せ衰えながらも美しさや憂いがどこかに感じられる「痩女」、そのような面を探し求めて、今回は山中家の「痩女」を拝借しました。

演者は面が何を語りかけようとしているのかを見極めることが大事です。面の持つ力を役者の身体に浸透させ覚えさせ、どのように表現するか、そこが極みです。演者はよい面を付けることが第一ですが、そこで安心することなく、面の力を引き出す技を磨かなくていけない、これが『定家』を勤めての大きな収穫だったように思われます。

さて、能の善し悪しは地謡で決まる、と言っても過言ではありません。特に『定家』や『小原御幸』などはシテもさることながら地謡の出来不出来が演能の善し悪しを大きく左右します。大曲・稀曲は大事にするあまりに、ただゆっくりと、慎重に謡えば成立するというのは間違いです。「なんでもノリがある、ノリが大事なんだよ」とは父の口癖でした。「丁寧に謡うのはいいが、頭に馬鹿の二文字がついては価値がないんだよ」と付け加えたのも父です。

ではどうすればよいか、いつも考えてきました。結局は良い意味での慣れが必要です。大曲・稀曲であろうとも手慣れていけば、ほどよい本当のノリというものが判り体得出来きてきます。そこを知ることが第一だと思います。

今回の地謡は私より年下の仲間に集まっていただいたため、『定家』を謡うことは重荷だったと思います。しかし父の考えや、私のとり組み方を是非この機会に理解してもらい、臆することなく慣れることで、本当のノリと、引く息の強い訴えかけある謡を目指してもらいたいと希望しました。多く経験してもらうことで、『定家』を遠くて高い神棚にある曲から、もっと間近に引き寄せてもらいたいのです。当日、皆真摯に必死に謡ってくれ、私の望んだことはほぼ成し遂げてくれたと喜んでいます。

稽古しはじめて不思議に思ったことがあります。それは何故、式子内親王が僧の弔いにより呪縛の定家葛から逃れられるようになったのに、また身の苦しい元の塚に戻るのか?ということです。稽古を重ねていくと、自分なりの答えが見えてきました。それは、読経や雨の滴りの効力には時間の制限があるのだろうということと、何より式子内親王は成仏するより定家葛に匍われていたかったのかもしれない、仕方なく塚に埋もれるのではなく納得して自ら塚に戻ったのではないか・・・ということです。

実際の年齢は定家が式子内親王より歳下ですが、式子内親王は五十三歳で亡くなられ定家は八十三歳まで生き延びています。式子の死後、定家は式子の父親みたいな存在に変わっていったのかもしれない。定家は自分が死ぬまで好きな式子の墓を守ると誓っていたでしょう。そして、死後は式子内親王の墓の守り神になろう、たとえ草木になったとしても…と思ったのではないか。こんな想像を巡らせてしまいます。しかし悲しいかな、式子にはそういう親心みたいなものが煩わしいのです。ですから、二人の愛とは肉体的、性的なものではなく、親子愛のようなもの、それも歌の世界だけで繋がった関係だったのです。

作者の金春禅竹もおそらく、優れた歌の詠み手だった二人に思いを馳せたのではないでしょうか。美しくも激しい歌を詠む式子内親王の父は、源平争乱の時代をくぐり抜けた後白河法皇であり、兄は平家打倒の宣旨を出し、後に敗死した以仁王であるという事実。式子は否応なしに歴史の渦に飲み込まれ、翻弄されて薄幸な人生を終えたのです。高貴で美しく才能ある悲劇の皇女・式子内親王と、身分の差はありながら、当時の歌壇で第一人者となった定家の間に、和歌を通しての純粋な恋の話を創造することは、能作家・禅竹の野心であり、夢だったのではないでしょうか。二人の恋は真実ではなく、あくまでも虚構の世界のものだったとしても、互いの歌を認め合い尊敬しあうという真実はあったかもしれない。禅竹は歌に生き、芸術に殉じたともいえる二人の真実を見つめていたのかもしれません。

いろいろと想像は膨らみます。しかし、「互いの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執を弔って」という謡の詞章から何を想像するかは、観る方のご自由です。すべてご覧になる方にお任せする、それが能の魅力だと、今、再認識しています。結局、父の言葉通り、演者は舞歌の基礎力と応用力を駆使して、虚構の世界を胸をはって演じればいい、ここに落ち着くようです。この結論に至ったことと式子が塚に戻ってしまう行動、この二つ、どこか似ているという感触を得ている私です。

*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートでは写真入で掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

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