阿吽44『木賊』を演じて 酔狂で描く一途な親心 粟谷 明生

能『木賊』は男親と子の再会をテーマにした物狂能です。能には親子再会物、特に母子再会の女物狂能は多くありますが、男親と子の再会物は珍しく、『弱法師』や『花月』、『歌占』などあるとはいえ、男親が老翁というのはこの『木賊』一曲だけです。以前喜多流では、『卒都婆小町』などの老女物と同じように、『木賊』は演者が還暦を過ぎなければ勤められない秘曲として扱われていましたが、近年、還暦前に披かれた方々のお陰で、この秘曲が神棚から降ろされ、やや身近に感じられるようになり演出も見直されるようになりました。その『木賊』を第百二回粟谷能の会(平成三十一年年三月三日)で披きましたが、身近になったとはいえ、難曲であることに違いないことを実感しました。 シテの老翁は生真面目で頑固、子を思う一途な父親で、『木賊』はその一途な親心がテーマです。しかも老人の物狂能で、行方知らずになった息子を思い、酒に酔っては狂う「酔狂」が特殊です。酔狂という言葉、酒を呑んで常軌を逸することと、好奇心から変わったことを好むことと二通りありますが、『木賊』で扱うのは前者の意味です。 今ではあまり聞かなくなりましたが、酒をこよなく愛する高知県人は、「あいつは酔狂やきー」などと、今でもうわさ話をします。酒を呑むとしつこくなり、まわりの人が迷惑でも、本人はいたって真剣で、「まっこと、そーじゃきー」としつこく同じ話を繰り返します。若い頃、高知の御弟子様との宴席で実際にそんな酔狂人とお付き合いさせられたことを思い出します。しかし酔狂な人は一本気で一途。 かく言う私自身も酒好きで、ついつい飲み過ぎ失敗もしますから、人のことをとやかく言えませんが、身近で言えば、父・菊生も酔狂な部分を持ち合わせていた、と思っています。芸論や子供の教育論などになると譲らず、私と言い争いになったこともありました。 この「酔狂」が存分に描かれるのが、能『木賊』で、特に後半の、ワキの僧たちを家に招いてお酒を勧めるところが一番の見どころであり、演者にとっても最難関であることは間違いありません。ここがある故に、『木賊』は高位で難曲と言っても過言ではないでしょう。私は普段、あまり面を掛けて稽古をしませんが、『木賊』ばかりは尉の面を掛けなくてはなかなか気持ちが立ち上がってこないので「小牛尉」の面を掛けて稽古を重ねました。 最初、息子の松若(子方)を先頭に、師の僧たち(ワキ・ワキツレ)が登場します。信濃国、園原の伏屋の里で育った松若が親に内緒で出家したが、年月が過ぎ故郷の父親のことが気になり、一目対面したいと、故郷の伏屋の里を訪ねます。そこに父・老翁(シテ)が従者(シテツレ)を連れて、木賊を担ぎ登場し、秋の伏屋の里の景色を謡います。後半の重苦しい物狂いの場面と比べ、前半はサラッとしたもの、前後の場面の雰囲気は当然違わなくてはいけません。 さて、この親子、どういう人物で、どうして子は出家したのか、気になるところです。父親の老翁は、木賊刈りをしていますが決して貧しくはない、むしろ名家の主人で、質素、謹厳実直、子供に厳しかったのではないか。「磨くべきは真如の玉ぞかし」「磨けや磨け、身のために」などと謡うところから、自身生きるべき道への強い信念があって、その強い思いが我が子の教育にも波及していたのではないでしょうか。「私の言う通りにしていれば幸せになる」「余計なことは考えるな」などと、一方的に口うるさい頑固親父です。息子の意見、言い分には聞く耳を持たない父親に対して、松若は黙って家を出るしかなかったのです。 子供の行方が知れなくなって、父親が苦しんだことは想像に難くありません。老翁は僧たちを自宅に招き一夜接待する「旦過」に誘います。僧を泊めて話を聞けば、何か息子の手掛かりがつかめるかも知れないとの思いがあったでしょう。老翁は、自分には子が一人あるが、往来の僧に誘われ、失って(行方不明になって)しまったと告白します。そして「心安く一夜を明かして」といって物着になり、前半は終わります。 老翁が物着している間に、松若は今の老翁が父親であることに気づきますが、なぜか「まだ再会させないでほしい」と僧に頼みます。自分はまだ修行の身、家に帰るわけにはいかない、一目会えればいいという思いだったのでしょうか。子供ながら複雑な心境です。 そうとも知らない老翁。物着をして現れた姿は子供が昔着ていた赤い着物を羽織り、子供の小結烏帽子を頭に載せています。子供の着物は裄が短くつんつるてん、袖のなかに大人の着物の袖がよじれ押し込まれていて、今でいえば、小学生がかぶる帽子をかぶり、ランドセルを背負って出てきたような異様な姿です。そして酒を僧たちに勧めるのです。私はこの時すでに、老翁は酒を少し呑んでいた、とみて演じました。であるからこそ、あの常軌を逸した姿でも登場でき、もうここから酔狂の世界が始まっているのです。 物着について、江戸時代の伝書には「肩上げした水衣の袖を物着にて下ろす」とありますが、近年は掛素袍や子方長絹などを着用し、しかも子方の中啓を持つ演出が主流となりました。これは近年の先人たちのよい工夫だと思い真似をして、観世銕之丞先生(銕仙会)から貴重な子方長絹を拝借し、今回の公演の原動力となりました。「たいへん似合っていた」と好評を得て、氏には感謝しております。 酒を勧める老翁に、僧たちは仏の戒めにより飲酒はできないと断りますが、古い故事などを引き、「法の真水と思って飲みましょう」と誘います。やがて酔うほどに、子はどうして親の心がわからないのか、と恨みの涙を、漣々と流すのです。 そしてクセ(舞クセ)では「親は千里を行けども子を忘れぬぞ、子は千里を経れども親を思わぬ」とくどき、「人の親の心は闇にはあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」(藤原兼輔)は本当のことだと嘆き、子の昔の面影が忘れられない、我が子はこう舞ったぞと舞いながら我が子の父への薄情を嘆き悲しみます。そして遂に興奮して狂い、泣き崩れて「酔泣」となるのです。まさに酔狂。これでもかこれでもかと、かなりくどい嘆きの表白です。それも父親の側の言い分ばかり、子はどんな気持ちで家を出たのかなどは考えません。きっと子の言い分もあるのでしょうが、そこには故意に光を当てない演出です。父親の頑なで一方通行の愛、真面目過ぎて自分の思いをごり押しする愛を描こうとしたのではないでしょうか。こんな父親、今も身近にいそうです。リアリティがあり、現在にも十分通じる話です。だからこそ能は古びない、時代が変わっても永く継承されているのだと思います。 今回、舞クセで「子はこう舞ったぞ」と地謡を聞きながら舞うときに、父はこう舞っていたかもしれない、と不思議な感覚になりました。この仕舞どころは基本の型の連続ではありますが、工夫が必要で、その工夫こそに演者の力量が測られる、と信じています。単に狂うだけでなく、ここは酔狂、酒に酔って狂い、思いがどんどん強烈になり興奮度が高まるのだと思って演じました。 そして老翁が「子を思ふ」と謡って序の舞となります。物狂いとなった老翁は、親が狂うなら子は囃すべきではないか、いま一目、父の前に見えよ、と訴えかけます。悲しみの一連の動きを大ノリで、笛、小鼓、大鼓の囃子方の音色と掛け声に合わせて、シテが演じます。まさに能ならではの表現で、最大の見どころです。 老翁が我が子の扇を見ては泣き出すところ、泣く前後の囃子方のスピードコントロールがよく、気持ちよく演じることができました。笛の松田弘之氏、小鼓の鵜沢洋太郎氏、大鼓の亀井広忠氏、囃子方お三方に感謝いたします。 泣き悲しむ父の姿を見た松若は遂にたまらず、自ら名乗り、二人は目出度く再会します。その後二人は古里を仏道を広める寺とし、これが伏屋の物語、目出度し目出度し、と終わります。再会後の話はこのようにあっさりしていますが、短いフレーズのなかに、一途な老翁は松若のすべてを許したのだと想像できます。仏道に入った息子の気持ちを汲んだからこそ、古里を仏道を広める寺としたのでしょう。親子というのはこんなふうに和解できるのです。 『木賊』は大事に扱われ重い曲、還暦過ぎないとできない曲とされてきたことは、最初に述べました。私も六十四歳、還暦を何年か過ぎました。お酒は昔から好きで楽しく陽気に呑むことが多いのですが、最近、気の合う仲間たちと呑み語り合うと、思わず涙がにじむことがあります。こんなことは若いときにはなかったことです。「酔泣」をしてしまうチョイ爺になったからこそわかることもある、なるほど、『木賊』は還暦過ぎないと……という意味がしみじみわかります。能を解るには時間がかかる、まさに実感です。 ワキは朋友・森常好氏が勤めてくれ、子方に大島伊織くんがちょうどよい年頃で、立派に勤めてくれました。そして地頭に我が師友枝昭世師、演能後に地謡を謡ってくれた従兄弟の能夫にも、そして貴重な面「木賊尉」と装束「子方長絹」を貸して下さいました観世銕之丞様、皆様に御礼と感謝の心で一杯です。よい時期に披くことができた、と幸せな気持ちでこれを書きとどめました。

『木賊』 シテ 粟谷明生(平成31 年3月3日 粟谷能の会) 撮影:新宮夕海

『木賊』 シテ 粟谷明生(平成31 年3月3日 粟谷能の会) 撮影:新宮夕海

Keiichiro KANEKO