阿吽34 『景清』を演じて 粟谷明生

阿吽34 『景清』を演じて    
―芸能者としての景清を親子で勤める―
粟谷明生
 

『景清』と言えば粟谷菊生、菊生の『景清』と言われるほど父は数多く勤め、十八番と賞賛されてきました。そのためか、私は父の存命中も亡くなってからもなかなか『景清』を演じる気になれずにいました。今年は父の七回忌の年です。それまでにはと思い、息子・尚生をツレに配役して、親子で粟谷能の会(平成二十四年三月四日)で披くこととなりました。

 

 景清が能に登場するのは、『景清』と、稀にしか演じられない『大仏供養』の二曲です。東大寺の転害門で頼朝暗殺を企て失敗する『大仏供養』は、若者でも演じられますが、『景清』は若年や未熟者では許されない高位な曲として、喜多流では重く扱っています。私も五十六歳になり、いつまでも避けていてはいけない、そろそろ手がけなくては、という思いもありました。

 

 景清は上総介忠清の七男で、勇猛であったため悪の字を付けて通称・悪七兵衛景清と呼ばれていたようです。平家方の侍大将として常に戦の陣頭に立つ勇者のように思っていましたが、勝ち戦の数が少ないこともあって、戦の雲行きが怪しくなるとすぐに退散するので、逃げ景清と陰口をたたかれていたようにも伝えられています。

 

しかし、能『景清』はそのような弱いところは一切見せずに、落ちぶれても豪の者として描き、昔華やかに戦った時代を戦語りで見せます。とりわけ、喜多流の景清像は老いても武骨魂の消えない、意地っ張りな盲目ぶりを強調します。

 

専用面「景清」には、顎髭が有る無しの二種類がありますが、喜多流は老武者の往時の面影を偲ばせるため、髭のある面を好んで使います。装束も着流し姿で乞食となった落魄ぶりを主張する流儀もありますが、喜多流は仰々しく、敢えて白色の大口袴を穿くのが決まりです。

 

 さて、今回『景清』を勤めるにあたり、景清とはどのような人物なのか、どのように演じたらよいかを考えました。まず人の憐れみで暮らす語り芸能者像、次に零落しても武士気質を捨てることが出来ない性格、最後に一人娘の父親である事実、この三つ巴に「老い」と「盲目」のハンディを加えた非常に複雑な構成になっていると思いました。そこが『景清』の面白さでもあります。

 

 舞台には引廻しに覆われた藁屋が置かれ、日向に流された景清(シテ)のところに、はるばる鎌倉から娘人丸(ツレ)と男(ワキツレ)が訪ねてくるところから始まります。二人が鎌倉から宮崎までの道中を謡い、脇座に着座すると、藁屋の中から「松門の謡」と呼ばれる謡が聞こえてきます。

 

 「松門、独り閉じて、年月を送り、自ら清光を見ざれば、時の移るをも、わきまえず。・・・」

 

 ここの節扱いは謡本には明確に記載されておらず、先人からの伝承、口伝です。私は父のを規範として真似ていますが、稽古に入って一つの疑問が起こりました。先ほどの複雑な景清のどの部分を強調し、どのような境遇で謡ったらよいのか、と。ここは父から伝授されていませんでしたが、やがて平家語りをする乞食芸能者の心持ちを全面に出して謡えればと思うようになりました。

 

 そのヒントとなったのは、角帽子の着用です。景清は角帽子を付けますが、角帽子とは本来出家を意味する被り物です。「なぜ出家していない景清が角帽子を被るのか?」この疑問が発想の発端です。

 

 そこで調べてみると、盲目の方も検校や勾当のような位のある方には特別に被り物が許されていた時代がありました。それが角帽子に似ていたため、昔の猿楽師の工夫で景清も角帽子を着用したのではないかと推察します。

 

 つまり角帽子は、盲目で日向の勾当と呼ばれた、平家を語る芸能者の象徴なのです。

 

 そこをクローズアップするのが「松門の謡」と「語り」ではないかと思い勤めました。老いても、語り芸能者として、ひとたびスイッチが入れば、声は高々と朗々と語りはじめ、悦に入って大声を張り上げてしまう、景清にはそのような一面もあったのではないか、と。

 

 「松門の謡」は昔から「鎧の節糸が古くなってぶつぶつと切れたように謡え」と言われています。これは納得出来ますが、「決して聞かせどころではない。聞こえても聞こえなくてもそんなことはどうでもいい。シテの腹の中に手ごたえがあればいい」となると、少々乱暴な教えだと反論したくなります。胸の内の思いだから声は小さく聞こえなくてもいい、というのは舞台に上がる者の臆病な言い分けではないでしょうか。

 

 能は歌劇です。謡の詞章は言霊として観客に的確に伝えられてこそ、観客はそこから想像を膨らますことが出来るのです。聞こえなくてもいい、は想像しなくてもよい、ということになります。「松門の謡」は呂の音(低音)を主にして、観客に的確に伝えられなければ失格です。

 

 西洋の音楽のピアニッシモ(とても弱く)や更に弱いピアニッシッシモ(とてもとても弱く)も、弱くとも芯は堅く、きっと演奏会場の遠く奥までしっかりと聞こえるのではないでしょうか。「松門の謡」も見所の奥まで伝わるものでなければいけないはずです。

 もう一つの景清の芸能者の本領を発揮する場が、屋島の合戦模様を語る「語り」です。はじめ冷静に語りはじめる景清ですが、次第に興奮してきて、声も荒げていきます。不自由な足下でありながら、遂には立ち上がり、娘のために、というよりは、もう自然と動いてしまう、そのような興奮状態で三保谷四郎との錣引きの有様を見せます。

 

 景清のもっとも華やかで脚光を浴びたあの時、もっとも自慢したいあの場面です。強く謡う地謡陣の謡い声に後押しされながら、太刀を振り、錣を取る型が続きます。

 

 『景清』が謡の能でありながら、唯一全身で動きを見せるところはこの段だけです。杖をつかなければ動けない者が、思わず杖無しで動いてしまう、ここにも細かな伝承があります。

 例えば、右手に持っている太刀を見る場合は、右を見ずに、わざと左に顔をそらします。掴んだ錣が切れた途端に、足の動きは順でなく、すべて逆の動きをします。左へ動く型は常は左足から動かすのがルールですが、わざと逆足の右足から出て不自由さを見せます。逆の動作は自然ではないので動きにくく、稽古を重ね慣れるしかありません。先人の舞台をよく見て身体で覚えるしかないのです。私も先人の方々や父のものを参考にして勤めました。

 

 昔語りを終えると、父景清は娘にもう帰れと促します。最後の別れの場面です。『景清』については、父から多くのの事を教えてもらいましたが、中でも最後の人丸を抱いて見送るところ、地謡の「さらばよ止まる、行くぞとの・・・」と別れる型で、父・菊生の左手がツレを勤める私の背中を強く押したあの感触を今でも忘れません。強い、のですが、しかしそのタッチは柔らかでした。

 

 「背中を押したら、すっと一の松まで行って、ふり返って、最後はシオリをしながら謡に合わせて幕に入れ」が、父の教えでしたので、今回もそのように息子にやってもらうことにしました。しかし、この「すっと一の松まで」がむずかしいのです。運ぶ(歩む)速度がはや過ぎては荒く雑に見え、遅くては景清が「もう行け!」と押した効果が上がらず、涙に繋がりません。

 

 さて、どのように息子に教えたらよいのだろうか。自分を振り返ると、「遅いよ」「はや過ぎだよ」と先輩よりご注意を受けたことはありませんでした。きっと上手くこなしていたのだろうと、自惚れていたのですが…。よく考えると、私は父の押す力を受け、それに委せて運んで(歩んで)いただけ、と気付きました。私がほどよい力で息子の背中を押してあげればよいことなのです。

 

 今回は少々力が入り過ぎたようです。後日「押し過ぎだよ」と人丸尚生に言われてしまいました。この度の『景清』は息子・尚生との初共演で、しかも親子の役でしたので、二人で稽古を重ねられたことも嬉しいことでした。「尚生は、まだまだ」と辛口の批評も仕方無いと思いますが、年齢と経験を計算すると十二分に勤めてくれたと、私は評価しています。

 

 父の『景清』の披キ(昭和四十五年 第十回粟谷兄弟能)は四十代後半のことでした。その後、昭和四十九年、五十五年と続き、生涯で二十八回の『景清』を勤め、『景清』は菊生の十八番でした。私はそのうちの九回にツレを勤めました。晩年の菊生の『景清』をご覧になられた方は多いと思いますが、昭和の舞台を観ておられる方は、もうそう多くはいらっしゃらないかもしれません。私が規範としているのは昭和の、父が五、六十代のころの『景清』です。溌剌として老いと盲目を真似る父の芸に憧れていました。

 

 晩年「なんだか最近演る『景清』は自分の素のまんまでやれちゃうが…。それがいいんだかどうだか…」と、こぼしていたのを知るのは、たぶん私だけでしょう。そのような父の姿を間近に見た上で、意識して真似しない部分もありましたが、基本は父の『景清』の真似、これは紛れもない事です。今、五十代でもう一度、そして六十代で数度再演し、粟谷明生の『景清』を創り上げ、お見せ出来るようになれば、と思っています。

 

*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで捕捉&写真入で掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

 写真 シテ:粟谷明生 ツレ:粟谷尚生 撮影:青木信二

写真 シテ:粟谷明生 ツレ:粟谷尚生 撮影:青木信二

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