対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その2

対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第2回目

死者たちの思いを代弁する

粟谷 能は、朝に演ずる、翁付脇能という神様を主体にしたものは別ですが、ほとんどの曲は死者というか、死んだ人間を題材にしていて、シテは死んだ人間の霊であったり、怨霊であったりするわけです。武蔵坊弁慶というその物語の中では生きている人であっても、もうこの世にいないわけで、我々からすると遠い昔の人です。それが仮の姿というか、役者の体を通して舞台に出てくるわけです。我々能役者は、その人たちの訴えかけ、何かの思いの代弁者というわけです。能という戯曲を創った人間は多分そういう思いで創っていると思うのです。というのは、当時の世相にも関係してきまして。観阿弥、世阿弥が生きた室町という時代は太平の世に思えるかもしれませんが、すぐ応仁の乱はあるし、飢饉はあり、六条河原には飢えで死んでいった人々がたくさん倒れていた。盗賊はいるし、ちょっとしたすきに子供はさらわれるし、人買いにとられてしまうという時代です。そういう時代の苦悩が背景にありますので、戯曲家にはそれらは意識しなくても影響は大であったと思われるし、そこを書いているのですね。観ている人間もそれが身近であったから、娯楽として観ると同時にその下部にある怨霊や霊の強い訴えかけを今の人間よりもっと身近に感じていたのではないかと思いますね。

松下 その時代は神がかりする人とか、死者と交流するというか、感応道交する人が、今よりはたくさんいたのじゃないですかね。

粟谷 そうでしょうね。

松下 今はそういう力が落ちてきている。文明とか何だとかで。当時は日常的に死んだ人とか霊とか神様が降りてくる人というのがいたのだと思いますね。

粟谷 室町時代の能が創造されていた時代にはキリスト教の影響を受けるまで行かず、能は仏教、神道の影響がほとんどだと思うのです。能は死者からの訴えかけがあるというのは、仏教の影響、仏教色が濃いからではないでしょうか。

松下 ええ。仏教の言葉を使っていると同時に、日本の古代から持っているある魂の力というか。呪術性というか。たとえば『黒塚』で天台宗の山伏が祈るのですけれど、呪術的な力が実際にあったと思うのですね。その怨霊退治とか生霊退治ということにおいてね。我々はいかにもフィクションの世界のように見てしまうのですが、当時は、実際そういうものが現実としてあったのだと思う。

粟谷 そうだと思いますよ。

松下 時代の問題でしょ。そういうような力が封鎖されてきたのは。江戸時代、世の中が安定してきて中央集権的な社会が、そういうものを全部封じ込める時代です。室町時代というのは、そういうものが自由に動いていた時代だったのでしょう。

能面も創作から模写へと変遷

粟谷 室町が日本的な文化が一番自由に咲いていた時代ですよね。

松下 まだ鋳型にはまっていない時代でもあるし。

粟谷 お花にしてもお茶にしても絵画でも、その後に段々と型にはまって、がんじがらめになっていくというか。能面でも、観阿弥、世阿弥の時代の面打師のものは創作なわけですよ。だから面の創作では第一期の般若坊とか三光坊という人たちが、たとえば般若坊なら、女の怨念を持った顔、憎しみを持った顔をどうしようかとずっと考えて、あの面を創るわけですよ。創作ですよね。もともとベースになるものがあるわけではありませんから。その創作意欲、創作の力というのが、第一期の面打師にはあった。すごいものだと思いますよ。

松下 感性は鋭かったのでしょうね。

粟谷 小面だって、龍右衛門という人の小面がすばらしいですよね。私は実は少しクラシックな感じがしますが……、いやー、とにかくすごいのは確か。その後、第二期になると、コピーの時代が始まるのです。模写の時代ですね。

松下 それはいつごろですか。

粟谷 江戸に入ると。

松下 江戸時代に入るとそうなる?

粟谷 そうですね。

松下 赤鶴(しゃくつる)という名をよく聞きますが。

粟谷 赤鶴は古いですよ。ベシミとか、要するに強い表情の面を得意とする。

松下 面というのは鑑定書みたいなのはあるのですか。どういう風にして面打師の名前がわかるのですか。

粟谷 名前は裏に書いてありますよ。鑑定とかそういうことになると能面コレクターの世界になりますが、私たちにとっては物が良ければいいのですよ。ただ、第一期の人たちのは創ろうとする意識がすごく強いじゃないですか。眉間に皺を寄せて男の苦悩の顔というので中将ができたわけで。中将は在中将業平の顔を想像し打って、中将と名づけたと。業平の歌舞の菩薩の姿を打ったと言われますね…。男の悩み、業平の苦悩を打ったわけですよ。だけどその後になると、できたものをその通りに忠実にコピーするものに変化してくるのです。この時期も大変なものですけどね。

松下 違う才能ですね。

粟谷 全く同じものを作らないといけないという。これ以降は模写の時代になっていく。そうすると段々と創作意欲が希薄になって、力がなくなっていくわけですね。で、今は…。この間『殺生石』女体をやりましたが、あれは前シテ も後シテも両方とも創作面です。

松下 創作面。昭和の平成の?

粟谷 最近、岩崎久人さんが打たれたものです。岩崎さんが玉藻の前をイメージして打っておられた創作面を銀座の展示会で拝見して、いつか『殺生石』の「女体」をするときには是非お借りしたいと思っていたのです。本来は我が家にある面、家には古い面がありますから、それを使えばよいのですが、ある時はそういう新しいものを使うのも良いと。新しくてもダメなものはダメですけれども、使えるものはどんどん舞台に生かしていきたいなと思って。結果が悪ければその面はダメの烙印が押されますし、役者もその面を選んだことで少し負を背負わなければなりませんが、この曲はこの面と決まっているからつけているということだけに拘っていると、模写の時代の面打師と同じようになる気がしましてね。

松下 同じことですね。

粟谷 意欲みたいなものがなくなってきて、この装束とこの面をつければそれなりになる、そういう風に教わっているから仕様がない、なんていうことになってくる。まー、怠け者と言われても、しょうがないですよ。それでは観ている人に失礼でしょ、観客は悲劇ですよ。

面、装束選び

松下 装束や面の選び方はおシテがある程度できるのですか。

粟谷 若いときはそれほどに自由にできません。修業中の身では、まず基本形というか、長年こういう風にやってきたという一つのパターンがあるわけですから。その基盤は崩さない方がいいと思いますけれど。

松下 装束も決まっているのですか?

粟谷 だいたい決まっています。ただそのときに、たとえば袴を、浅黄色にするか、萌黄色にする、茶色にするかは自由であったりするわけですよ。唐織を着ると書いてある場合でも柄はどうするか、例えばいくつか唐織があるけれどもどれにするかといったことは、本来シテが選ぶべきですね。

松下 スタイリストみたいな人がいるわけじゃないのですね。

粟谷 本来スタイリストは自分でなければいけないのですよ。子供のころは、親や師が見立てます。これとこれがいいとか、ましてや小さい子はこれしかないからという風に着せられますけれども。青年になると、修業の身だったら、先生に「お前はこれを着ればいい」といわれますが、そういうものを卒業していって自立したときは、たとえば着たいと思う装束の持ち主のところに行って、頭を下げ、実は扇面模様(せんめんもよう)の唐織でやりたいのでお貸し頂きたいというぐらいの意識がないといけないと思いますね。いつまでも他人任せでは一人前の能役者とは言えない気がしますが。

松下 それも一つの創作活動ですね。

粟谷 その辺から始まるということはありますね。あまり新しい物でなくて、もうちょっとくすんだ物にしようとか、どういう色のどういうものを着るかから始まって、こういう風に謡ってこのように舞うまで、自分で考える。どちらが先ということはないですけれども。

松下 おシテさんはおシテさんの、自分のことで、他のワキの方はワキの方で決めるのですか?

粟谷 そうです。

松下 自分のことは自分で決めるということですね。

粟谷 そうです。ただツレ役で、シテがこれを着るから、ツレはこれを着てくれよと言うことはありますが、ワキや狂言の方には口ははさみません。別世界です。それぞれが決めていますね。

松下 舞台は相まみえてですね。

粟谷 そうです。あまり色が同じにならないようにという配慮はしますが。たとえば、おじいさん役をやるときに水衣を着ますが、だいたい茶色っぽい物になる。ワキの僧も茶色の僧衣になって似てしまいます。全く同じ色の物が舞台に並ぶのはおかしいですから、濃い色ですかと伺って、それじゃ私は薄い色にしましょうと、お脇は色を変えたりして下さいます。

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