我流13 青年期・その七『道成寺』を披く

我流『年来稽古条々』(13) 青年期・その七『道成寺』を披く

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明生 先回は『道成寺』までということで『黒塚』を中心に話しました。そろそろ『道成寺』に入りましょうか。

 

能夫 そうね。僕が『道成寺』を披いたのは昭和五十四年十月十四日の粟谷兄弟能でのことだった。当時は粟谷能の会ではなく兄弟能といっていたんだね。僕は三十歳。その日の番組は新太郎の『清経』、菊生の『羽衣』、そして僕の『道成寺』。明生君は『清経』でツレをやっている。

 

 

明生 私の披きは昭和六十一年三月二日の粟谷能の会のときです。『景清』菊生、『富士太鼓』新太郎、私の『道成寺』でした。能夫さんは『景清』のツレでしたね。私も三十歳で披いています。このころは『道成寺』の披きというと三十代前半というのが一般的なところでしょうか。

能夫 先輩ではもっと早かった方もおられるけれど。友枝昭世さん、香川靖嗣さんは早かったよ。

 

明生 二十代で披いておられたようです。我々の世代は三十歳になればそろそろよいのではという感じで。まあそれまでの修業過程に基づきますね。我々の後の世代はもっと遅くなっていますよ。三十五、六歳とか・・・。能夫さんは『道成寺』をやらせてくださいと願い出たのですか、それとも実先生にそろそろやるように言われたのですか。

 

能夫 その辺のことはよく覚えていないんだ。まあ両方からボチボチって話になったんだろうなあ。自分でもそろそろという気持ちは持っていたし、父や菊生叔父に話をして、よしということで実先生に申し上げたと思うけれど。

 

明生 当時は実先生の許可を得ないとできないわけで。粟谷家としても、実先生に申請して許可をいただいたわけですね。

 

能夫 それで日程が決まったのは二年ぐらい前だった。

 

明生 私は二年半前でした。父流のお願いの仕方というのがありまして、年末に「三年後になりますが・・・」とお願いする、すると、「う、三年後ね」「それまでにしっかり勉強すればよいか」となる。でも年が明けたら、あっという間に二年後になるのですよ。。

能夫 僕は、自分の世代のトップバッターだったから・・・。そのきつさはあったと思う。

 

明生 友枝昭世さんがやられて、昭和四十五年に内田安信さん、香川靖嗣さん、昭和四十六年には塩津哲生さんが披かれた後、少し間があいて、能夫さんですからね。

 

能夫 だから、しばらくやっていないという難しさがあるし、次の世代のさきがけとしての責任もあるし・・・。

 

 

明生 能夫さんの場合はそういう面での、つらさがあったでしょうね。私の『道成寺』は指導者が変わるという節目でもありました。それまでは喜多実先生が直接の師でしたが、『道成寺』からは友枝昭世師になるという・・・。

 

能夫 僕のときは実先生が面倒をみてくれたけれど、明生君のころは先生もご高齢になられたからね。

 

明生 私が『道成寺』を披くとなったとき、父が昭世さんへ、「うちの子は君に傾倒しているから、君が教えてくれないか」と頼んだのです。それから友枝昭世師に御指導を受けているのですが。それでも申合せは実先生がいらして見てくださいました。

 

能夫 そういう意味では、僕と明生君では多少時代背景が違うなあ。いずれにしても『道成寺』ができると決まると、からだの張りみたいのものが違ってくるよね。『道成寺』を舞えるのだという、うれしさと緊張感が生まれて。

 

明生 私たちにとって『道成寺』というのは、それまでの舞台や稽古、しいては生活態度までの総決算ですからね。技術的、芸術的な観点で作品をみたらまだまだ未熟と思われるし、お客様に、安珍清姫の物語の女の情念を豊かに想像させられるかといったら、難しいと思います。でも『道成寺』を披くという一つの意味は、ここまでやってきたという成果を見てもらう、仲間うちに認められるということじゃないですか。能夫が、明生が、一生懸命取り組んでいるのがわかったという、まずはそれでいいのではと思うのです。その裏付けとなるものをきちんとやっていく事が大事で。多少破天荒でもエネルギッシュに、まさしく若者の披き『道成寺』、ここにあり、というものにならないと。

能夫 そういうものがないといけないよ。ただきれいに、そつなく舞うというのではなく、何か『道成寺』の命といおうか、そういうものを伝えようとする気迫がないとね。

 

明生 『道成寺』を舞えると決まってから二年近く、能夫さんはどんな風に過ごしましたか。

 

能夫 型付のことや囃子のことなど、何かと資料集めから始めたような気がする。高林さんの家から型付をいただいたり。法政大学の能楽研究所にも行ったり・・・。

 

明生 能夫さんは寿夫さんの能にふれ、伝書を読むとか、能について熟考、掘り起こし、そういうことに時間をかけていたことを、近くで見ていたからわかりましたよ。もちろん熟考して、自分なりの試みをやっても、全部がうまくいくとは限らないけれど、それが、後の演能に生きてくるということは絶対ありますから。

 

能夫 僕らの前の世代は、ご自分で研究しようなどとはあまりされなかったでしょ。実先生が強かったから、そういうことができないという状況もあったし・・・。

 

明生 舞う技術の基本、シカケ、ヒラキは大事ですが、でもある年齢になったらその段階にとどまるだけではいかがなものか。痩せた能になるのではないでしょうか。型としての動きから作品の背景を背負った動き、舞へと意識していくことが必要でしょう。

能夫 上の人からたたき込まれる時代もあって、それはそれでよい時代だったんだよ。でも今の時代はおそらく、それだけではダメで、自分なりの何かを表現するか、プラスするものを意識していかなければと思う。僕は寿夫さんによって目を開かれ、観世流の浅井文義君に引っ張り回され、いろいろな経験させてもらって、結果は悪くなかったからね。伝書とか資料を読んだり、僕が意識的にやり出すきっかけになったのは、まさに『道成寺』だったんだよ。

 

明生 能夫さんはそれをやり始めたから感心しますよ。『道成寺』では鐘の作り方とか、習の次第でのシテの出についてなど、いろいろ掘り起こしてくれたから、後に続く私はそれを見て、踏襲すべきことは踏襲し、変えたいところは考えればいいのだから、助かりましたよ。乱拍子の下申合せの仕方も当時としては画期的だったのではないですか。

 

能夫 乱拍子、喜多流は幸流と合わせることになっている。僕のお相手は横山貴俊さん、本番が十月でしたから、その年が明けてすぐに、下申合せの稽古をさせてもらうことになった。そうしたら、笛の一噌仙幸さんが、自分も一度呼んでほしいと言ってくださって、それで笛と鼓とで合わせる稽古ができた。これがよかった・・・。

 

明生 一回は小鼓と、もう一回は笛も加えてと、稽古法みたいなものが、私に伝承されました。乱拍子では、鼓と合わせる稽古は当然必要ですが、笛をお願いしないと臨場感が出ませんね。単なる器械体操みたいになって、でも笛が入ると、芸術性が出てくるというか・・・。

 

能夫 奥行きが出るというか・・・。僕、あのとき仙幸さんが「やってよ」とよく言ってくださったなと思ってね。

 

明生 私も能夫さんが笛も入った方がいいよと言ってくれたので、一回目は亀井俊一さんと、二回目は笛の一噌仙幸さんにもお願いしました。

 

能夫 それから継続の稽古、通しの稽古をしないとダメだね。乱拍子だけで終わりにしないで鐘入りまでね。

 

明生 一つ一つの型がある程度できてきたら、それをやらないといけませんね。乱拍子の後、「山寺のや」と地が入って急の舞に急速に入って行く当たり、その後の鐘入りまでは一連のものですからね。

 

能夫 そこを通してやらないとね。そのとき思ったのは、後(後場)もちゃんとできないといけないということ。乱拍子や鐘入りに集中して、後は惰性になりやすいでしょ。いろいろ言っているけれど、『道成寺』というのは、考えるより、若いエネルギーをぶつけようとしか思っていなかったような気もする。それをすることによって、いろいろな課題が見えてくるだろうなと思っていたけれど。

 

明生 そうですね。若さをぶつける、それに尽きますね。

 

能夫 それから、僕の本番は十月だったから、稽古が真夏の暑いときで苦労したのを覚えているよ。

 

明生 それで私の『道成寺』のときは「春がいいよ」と。

 

能夫 十月にやるということは、夏が稽古本番でしょ。家元のところに行き、見ていただき・・・。暑いうえに蚊が 飛んでくるから気が散るじゃない。集中できないんだよ。

 

明生 夏の練馬の中村町ね。蝉のミーン、ミーン、蚊のプーン、思わずパチン。かゆい、かゆいじゃ、いやになってしまいますよね。(笑い)

 

能夫 まあ、でもそんな中で、集中力を持続させる精神力も身につけていったんだがね・・・                                         

 

koko awaya