我流14 『道成寺』に向けて

我流『年来稽古条々』(14)青年期・その八 『道成寺』に向けて

明生 先回は『道成寺』がどう設定されたかとか、稽古の話も少し入りましたが、今回は『道成寺』についてもう一回、本番前の話をしてみたいと思います。

能夫 僕の『道成寺』は先輩たちから間があいたでしょ。うちの親父が僕の三、四年前に、芸道五十年というのでやっているけど。あの頃は僕、銕仙会の能をよく見に行っていて、特に観世寿夫さんの存在感のある謡のすごさ、ただ謡うのではなくエネルギーをかけて主張するような衝撃波が伝わってきていたんだ。謡の重要性ということを教えられたと思う。喜多流では型の方が強調されて、謡にまで至らないということは感じていた・・・。 このことは『道成寺』に限ったことではないけれど。

 

明生 私は『道成寺』から友枝昭世師に習い始めました。師は実際に「こうやるんだ」と、目の前で見せてくださる。それまでは実先生がご高齢であったため、実際に見せて下さるというより口頭でのご注意が主でしたので、その指導は衝撃的でした。目の前でこうする、でもキミはこうなっていると・・・

能夫 ここがこう駄目だと真似されるわけでしょ。

 

明生 そう。それはすごい衝撃ですよ。私にとっては新しい一ページが開かれたという感じでした。父が友枝氏に稽古の経過を聞くと「駄目ですねえ。徹底的にやり直さないと」と言われたとか・・・(笑い)。

能夫 まあ大変なことだよな。『道成寺』という曲は。

 

明生 それまで私はお能に対して少し横向いていて、『道成寺』当たりが立ち直る機会になったわけですから当然ですよ。乱拍子からやり直しという感じでね。友枝師にとって、教えるからにはここは絶対直さないと、というところが多々あったと思います。だから謡の注意以前に、型を徹底的に直そうという・・・。乱拍子に絡む和歌の謡、そして大事な次第「作りし罪も消えぬべき」や道行などは後回しになってしまうのです。本来能の稽古は謡の稽古から入り、次に型でしょうけれど・・・。今の状況はあまり褒められたものではないのかもしれませんね。

能夫 そういう傾向はあるなあ。でも具体的に体を使って教えてもらえたというのは大きいことだよ。僕の場合は、先輩たちから聞きながら自分なりに作っていったものを見ていただくという形だったからね。自分との闘いというか、日々集中して稽古をしながら、人生というか、その時間を『道成寺』に捧げるという感覚。『道成寺』のために生きているみたいな、充実した時間を過ごしたという喜びね。実先生は内弟子には本当に一生懸命稽古して下さった人で、そういう方向性のもとで出来た喜びと達成感はあるね。

 

明生 能夫さんのころは乱拍子のために幸流に入門するということをしましたね。

能夫 そう。乱拍子は喜多流からではなく幸流から相伝を受けるという建前になっていたから。

 

明生 特別な秘伝のようなものを教えてもらいましたか。

能夫 特別ということはそれほどないよ。入門というのは形式だよ。でも幸流から、乱拍子の間については教わったね。二呼吸プラスアルファから二呼吸になって、一呼吸プラスアルファ、そして一呼吸と、和歌の段までだんだん間が詰まって行くと。間が詰まって行くからテンションが上がって行って、和歌の段でそして最後に爆発するわけですよ。そういう風に思ってやっていますからと横山貴俊氏から教わったね。

 

明生 小鼓との呼吸は難しいですね。仕掛け操るのは小鼓ですからね・・・。
シテが能動的に動いては乱拍子の規範から外れてしまうでしょう。

能夫 だから、こみの取り方、小鼓方の心得、そういうことを習うのが入門ということになるだろうね。

 

明生 稽古法についていえば、私は装束をつけての稽古を一回やらせてもらいました。

能夫 申合せの前だったね。

 

明生 申合せでは装束をつけない慣習ですから、いきなり本番では自信がなかったので、それでお願いして。私は『葵上』が『道成寺』の後だったので、坪折、腰巻という格好の経験がなくて、いろいろなことが初体験でした。あのときは能夫さんと友枝師と父が立ち会ってくれました。

能夫 喜多流では当時、下申合せという習慣がなかったからね。乱拍子は別に稽古があったけれど、総合稽古のようなものは申合せ以外にはなかった。

 

明生 装束はわが家にもあることだし。装束をつけて実際どうなるか、ということをやった覚えがあります。

能夫 観世流では下申合せを全員揃ってやるでしょう。

 

明生 そこへいくと喜多流は申合せだけでいきなり本番ですから、無謀というか・・・。

能夫 鐘入りなんか本番まで一度もやらないのだから恐いよ。どうなるのだろうかと思ってね。

 

明生 鐘入りはあるところまではシテの責任で、それ以後は鐘後見の責任というところがあります。鐘後見にしてみれば、シテはちゃんと鐘の下まで来いよという気持ちだし、シテとしてはうまく鐘の下に行けるか、強いプレッシャーがありますね。

能夫 昔話でシテが鐘の下に行けなかったということがあって・・・。僕らはそこに行けないとは夢にも思っていないけれど、でもどういう状況になるかわからない、それはもう胃が痛くなるほど恐かった。当日までね。

 

明生 その鐘の作り物はシテの責任で作りますね。昔は鐘の下の周囲に五銭硬貨をいれ、落下時に金属音をさせたり、内側の天には赤頭を入れたりして衝撃を和らげるようにしていましたが、私のときはスポンジ系統のものを入れて工夫しました。

能夫 僕は棚を四つ取り付けて面を前後に二つ。二つというのは面が割れたりする事故に備えて。それまでは面をただひもで鐘の内側の骨組みの竹に結わえているだけだったから危険だったよ。あとの二つの棚は妙鉢を入れるね。

 

明生 あの四つの棚は能夫さんのやり方なのですか。鐘の中のことはすべてシテの責任で行いますから、事前に能夫さんに一度入って見てもらいましたね。

能夫 そういう意味では『道成寺』というのは、いろいろなことを総合的に学ぶ機会でもあるね。

 

明生 作り物や面装束だけでなく、たとえば小鼓のお相手をどなたにお願いするかとか・・・。

能夫 『道成寺』の制作というか、経済までも勉強する必要があるね。『道成寺』は親がかりでやることが多いけれど、ある程度披く人間が責任を持ってやった方がいい。独立する機会でもあるし・・・。

 

明生 『道成寺』にかかる経費の帳簿を見せてもらうと、大変なことをやらせてもらうのだということがわかります。稽古が始まって本番までの一年と、税務処理をすませるまでの残りの時間、とても長丁場です。うちの場合は一つの家族で催しているありがたさを痛切に感じますが、でも、経済のこと、三役の配役や交渉まで、総合的に知っていかないといけませんね。

能夫 能の仕組みをわかるために、『道成寺』を通して汗をかいた方がいいと思うね。そういえば、『道成寺』の年は、僕、アスレチッククラブに通っていたよ。体作りね。

 

明生 私も行きました。『道成寺』は体力がいると思って。あの当時三十歳でこんなに体力が落ちているのか、二十代とは違ってきた・・・と唖然としたのを覚えていますよ。

能夫 確かに、それは思ったね。だから負荷をかけて耐久力をつけるといおうか・・・。

 

明生 今となってはあのころに戻りたいけれど(笑い)。当時はすべてに対して、出来る限りしておこうという気持ちでいましたから、肉体的にもある自信を持っておきたいと目指したわけです。

能夫 そうだったな。

 

明生 人に指図される前に、先に自分で、という気持ちで。

能夫 自覚だな。トラックを走って、腹筋何回、背筋何回ってね。それで効果があったかはわからないけれど、だけどやっておきたかった。

 

明生 そういうことをやっていると、本番で「おまーく」といって出て行くときの自分自身への充足感が違うと思っていましたから、今でもそう思いますよ。

能夫 『道成寺』に向けての一年はやはり特別なものだったかもしれないな。だから舞台によいものが出てくるんだろうね。

 

明生 若さもあったし。でも能楽師たるもの、年に一番は大曲を舞って、緊張感ある一年を意識的に作っていかなければいけませんね。

能夫 そうね。『道成寺』が終わった途端に、運動をやめたせいかギックリ腰になってね。急にやめたからね。

 

明生 そうですよ。能も大曲を演じた後、また舞わないとお能のギックリ腰になってしまいますよ。

能夫 そうか、お能のギックリ腰ね。これはいけないね(笑い)。

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