我流30 『景清』 『砧』

我流『年来稽古条々』( 30 )―研究公演以降・その八―『景清』 『砧』について

明生 研究公演で勤めてきた曲目を振り返りながら進めている稽古条々で、今回は本来、第八回研究公演(平成九年)で取り上げた『景清』と『采女』ですが、次回の粟谷能の会が『景清』(明生)、『砧』(能夫)ですので、この二曲を取り上げてみました。能夫さんは二曲とも研究公演でまず演られましたね。『砧』は平成十一年の第十回研究公演です。では『景清』から。『景清』は四十代に披き、五十代、六十代、七十代と、それぞれの年代の『景清』がある、と聞かされていましが、能夫さんの披きは四十代ですか。

能夫 いや、五十歳になってすぐだね。

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明生 今の楽屋内の風潮では、四十代や五十歳そこそこではまだ少し早い、という空気があるようですが、早めに取り組む方が良いように思うのですが。

能夫 そうかもしれないね。『景清』は先々代・十四世喜多六平太先生の当たり役で、友枝喜久夫先生や父(粟谷新太郎)や菊生叔父も憧れがあって、よく頻繁に演っておられたね。六平太先生の写実的な動きの切れ味に心酔して真似て、それがうまく伝承されている感じはするよ。

明生 父の晩年は『景清』が多くて、私にとっては、あまり遠い曲ではないですね。

能夫 『景清』は『野宮』と同様、能役者を選ぶ曲だね。

明生 『野宮』は痛感しますね。『景清』や『安宅』など現在物はたしかに、容赦なく役者を選ぶ感じがします。能役者としての許容範囲内で、いかに芝居心が持てるかが岐路となりますね。

能夫 『景清』は、親子の別れ、失意、孤独感、そういうものを表現しなければいけない。ある人が『景清』を披かれたときに、友枝昭世さんが「腹据えてやれ」と怒られたが、能役者の体内に景清という人物像が蓄積されていないといけないわけで、上っ面だけの物真似じゃ景清が怒るよ。腹を据えてやらないといけない曲だとつくづく思うな。

明生 はい、腹据えます。景清を扱った曲には『大仏供養』がありますね。

能夫 『大仏供養』では、頼朝暗殺を狙い東大寺大仏供養の場に忍び込み、しかし逆に捕らえられてしまう。いろいろ取りはからってもらうが、なかなか言うことを聞かない。景清は頑なな豪の者っていう感じだね。

明生 そういう性格の人物像ですから、自ら憤りを感じて、目を潰し、世を厭い…。

能夫 能では世を厭い隠れ住んでいるところに娘の人丸が訪ねて来る。最初は無惨な姿を見せたくないと、名乗らずやり過ごすね。「声をば聞けど面影を、見ぬ盲目ぞ悲しき…」、この地謡は短いが、いい聞かせどころだよ。

明生 『景清』の地謡どころはすべていいですね。「さすがに我も平家なり」のところも…。そして親子再会し、娘の‐8‐『景清』 シテ 粟谷能夫( 撮影 あびこ喜久三)所望の戦語りをはじめる。錣引きの段は動きも加わり…。

能夫 自分の生涯で一番の自慢のところを、老いた体で再現して見せる。人生のハイライトを娘に語るわけね。

 

明生 娘との再会というできごとのなかに、景清の生涯が凝縮されているのが能『景清』で、それをシテ役者がどう描くか。娘との出会いで揺れる心、親子の情、しかし、最後には背中を押して帰す強い心。これらを能の型で処理しながら、尚かつ能役者がどのように表現出来るか。心の中の葛藤が『景清』の鑑賞点だと思います。

能夫 そうだね。単に様式や型だけで描こうとしてもできないんだ。役者の生涯とオーバーラップして、思いを込めることで、深い味わいが出てくる。

明生 そうですね。となると現代能役者の生活感からすると余り若いうちでは体内に蓄積されるものが足りない…。

能夫 若いときはどうしても景清の年齢を忘れて丁々発止してしまうでしょ。それはそれでいい面もあるけれど…。老いたときは本当に体が動かなくなり、それは老いのリアリティなんだが…。それでは生ではないか、とも言えるよね。父が晩年、熊本で『景清』をしたときに、僕は当時アンチ父だったけれど、ああいいなって思った瞬間があるんだ。なんだか父が輝いて見えてね。ただそれを急に真似ようとしてもできないわけで。ちゃんと積み重ねの作業をしてやらなきゃだめなんだ。

明生 『景清』は勤める演者によって、全然違う印象を受けますね。他の曲はそれなりに能の持つエネルギーがオブラートのように覆ってくれますが、『景清』用のオブラートはどうも薄くすぐ溶けてしまうような気がします。

能夫 景清のドラマの高め方は、それぞれ個々の能役者の持っているドラマと共通するのかもしれないね。

明生 そこが、能役者が一生賭けて挑む、遣り甲斐みたいなものですね。人生の経験が舞台に出るというか。その人間を彷彿させるもの、そこが能の面白さですね。ところで『景清』といえば、シテの最初の謡出しの松門の謡ですが。「松門、ひとり閉じて、年月を送り、みずから、清光を得ざれば、時の移るをもわきまえず・・・・」と、藁屋の作り物の中で謡うところ。馬鹿でかい声ではダメですが、何を言っているのか聞こえないのは失格でしょう。

能夫 あの謡が最初の勝負どころだよね。先人たちもあそこで生き死にがあって、ダメを出されたりしている難所‐9‐だよ。僕は「松門の謡」を入院していた父から直接教えてもらって、声の扱いとか謡の運びはもちろん、節扱いもね。父の声はか細くなっていたけれど、景清の心持ちは伝わってきたよ。まるで本物の景清のようにね。

明生 そうでしたか。「松門のアシラヒ」をどう思いますか。

能夫 僕は、一噌仙幸さんにアシラヒ笛を吹いていただいたな。笛のアシラヒなど邪魔、謡だけで世界を創る、という考え方もあるけれど、アシラヒ笛による景清の孤独な心象風景を描くやり方もあり、そこに憧れてやりましたよ。

明生 父は、何度かやっていますが、「松門のアシラヒ」をあまり好んではいなかったです。

能夫 そういう芸風だよね。『景清』はそれぞれ師を目標として目指すわけだが、それでもそれぞれ違うものが出来上がる。当然といえば当然なんだろうね。個々が工夫し自分の風を自然と創っていけばいいのかもね。先々代の六平太先生は、鎧おどしの紐がブツブツと朽ちて切れていくように、と謡う心得を説かれているね。

明生 イメージが湧きますね。能夫さんは研究公演以降、『景清』の再演は?

能夫 チャンスはあったがやっていないんだ。

明生 私は…、『景清』は父の十八番でしたから、気持ち少し遠慮して遠ざけていたのですが、そろそろ挑まないといけないと思い、三月に五十六歳で勤めます。正直、父と比較されたら、たまらないわけでして…(笑)。

能夫 それでも観て下さる方々は期待するだろうからね。まあ宿命だな。

明生 父からは手取り足取り教わってはいませんが、父の舞台はよく見てきたつもりですのでイメージはできています。ただ父の晩年のものではなく、「『景清』はこうするんだよ!」とほろ酔い加減で教えてくれた六十代のあの時、あの時代を私のスタート地点にしようと思っています。晩年の父の『景清』が良いからと言って、そこを真似しても空虚なものになりますから。では、次に『砧』に移りたいと思います。研究公演では能夫さんがシテで私がツレ(夕霧)を勤めました。

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能夫 あのときは、最初にワキの名乗りを入れる形式を試みたね。

明生 ワキの宝生閑先生に「従来の喜多流のやり方で、私がワキでは、ワキの名乗りがどこにも無いことになる、それはおかしいだろう?」とご忠告を頂いたのがきっかけです。実は私、研究公演の前の平成十年に父の代演で『砧』を勤めまして、そのとき、私自身もおかしいなと疑問を抱きました。その後での閑先生からのご指摘でしたので、これは改善しなければと思いました。観世流は、最初にワキがシテツレを従えて登場し、自ら名乗り、侍女の夕霧を使いに出して、年の暮れには必ず帰ることを伝えるようにと言う場面があります。しかし喜多流は、いきなり夕霧が登場して、ことの経緯を説明し蘆屋に向かうという省略された形になります。下掛宝生流のワキは「追善のための砧が用意出来たか?」とアイとの会話で登場するので、一度も自分を名乗らないことになり、これはルール違反です。物語を知らない方は、「あの人誰?」と疑問が起きて当然です。‐10‐『砧』 シテ 粟谷明生(撮影 石田 裕)

能夫 他のワキ方や喜多流では、後場で名乗りがあるから問題がないが、下掛宝生ではね…。

明生 ですから、どうしても最初にワキとツレが出る場面が必要になります。

能夫 それで、研究公演ではその形式を試みたね。あの改善は良かったと思うよ。

明生 『砧』は世阿弥の傑作ですが、本人が申楽談儀に「かやうの能の味わひは末の世に知る人あるまじ」と嘆いているように、その後あまり演能されず、室町時代には一時絶えてしまいますね。江戸時代に座敷謡として復活しますが、まだまだ演出がきちっと固まっていないように思われます。現代でも演出を再考する余地がまだ残っていると思いますね。

能夫 以前は砧の作り物を出さなかったからね。「ほろほろはらはら・・・」と砧を打つ場面も打つ対象がない。

明生 どうして表現していたのですか。

能夫 足拍子で砧を打っているような音を出してね。でも砧を打つことが、『砧』という曲を象徴するわけでしょ。作り物がなければ成立しないよ。

明生 そのことに気づいた人が変えたわけですね。なにかの本に、珍しく喜多流(友枝喜久夫先生)で作り物を出して『砧』がやられた…とあるのを見たことがありますが…。

能夫 実先生の時代、はじめは砧の作り物は出していなかったね。それが作り物を出す試みがあって…。

明生 最初は前場には出さなく、後場だけ出す演出であったように聞いていますが…。今は前後共に出していますね。また作り物を出すタイミングもいろいろ考えられます。前場のツレの聞かせどころ「宮漏高く立って、風北にめぐり・・・」は、喜多流ではツレの独吟ですが、観世流では地謡です。観世寿夫先生の『砧』のそれを聞いて感激しました。地謡の声の力強さと透明感とが相俟って、それが大勢で為されている、あれ絶品ですね。

能夫 あれはすばらしいね。前場の山場は、蘇武の話をひいて、砧を打つことの意味を謡う象徴的な場面で、戦さに出ていった夫、その後を守る妻の思いが切々と謡われるところ、その思いが届けとばかりに砧を打つ。

明生 謡どころでもありますが、舞っていても面白いところですよね。そして砧の段が終わって、喜多流の謡本では夕霧が「殿はこの年の暮れもお帰りになれなくなりまし‐11‐た」と謡いますね。あれが、いかにも唐突です。「ご主人様は帰りたい気持ちがあるのですが、どうしてもまた事情がおありになって」というならまだしも。

能夫 だから疑ってしまう。

明生 わざと、夕霧が意地悪をしているような印象を与えます。夕霧が現地妻になっているにしても、それは別です。『砧』を単なる復習劇、嫉妬劇と誤解してはつまらない。

能夫 そこの演出も今後工夫の仕様がいろいろとあると思うよ。面だってそう。伝書には前シテは小面とあるが、最近は曲見とか深井です。小面では詞章に合わないよ。

明生 でも、あまり年増のイメージも嫌ですね(笑)。

能夫 そうね、後シテの面は喜多流では「痩女」だが、観世流は「泥眼」。もっとも「痩女」の選択肢もあるようだが。

明生 喜多流は「痩女」が決まりでその他の選択肢がないため、どうしても位がゆっくりとなり重くなりますね。

能夫 面に準じて謡うから、仕方がないね。相当しっかりして重くなるね。

明生 喜多流に慣れないお囃子方は、驚かれます。まるで老女物のようだと…。

能夫 そういう位取りだね。『砧』がまるで老女物のように重くなるのは疑問に思うけれども、なかなかそこから脱却できないね。先人達の重圧というか。

明生 『定家』や『砧』など、友枝(昭世)先生もおっしゃっていましたが、ご先代とかあちら(あの世)から見られているようで、なかなか踏み出せない、と…。

能夫 そうなんだよ。『砧』は『定家』に行く前の曲と思うし、『砧』を経験しておくことは、将来の『定家』や老女物をやるために大事だと思うね。『砧』の最後のところの「怨めしや」まで重い感じでしかも乗ってきて、「法華読誦の力にて・・・」で恨みが溶けて和やかになる。あそこは雰囲気を変える謡が難しいね。

明生 ただ強弱で謡うだけでは変えられませんね。

能夫 ほどけていくというか、浄化されていくような。

明生 それでいて余韻みたいな引きずるものもあって、なにかを残して終わるような…。『砧』はまだまだ演出の幅があると思うので難しい面はありますが、いろいろ考えてこれからも進化させたいですね。

能夫 演出のキャパがあってやりようがある。ということはその選択を自分でしなければということですよ。

明生 お仕着せではなく、演者自身の探求心を深めていくことが大事ですね。私は父の代演が披きで、二回目が、平成十六年の粟谷能の会で勤め、いろいろ改善を試みました。伝書に後シテの出で「梓の出」の記載がありましたので、やってみましたが、なかなか面白いですよ。

能夫 小鼓がポンポンと連打して梓の音を表して、それに引かれながら出るんだね。

明生 出端で直ぐに幕上げで、一旦三の松で止まって梓を聞く風情で、また歩み出す…。

能夫 ちょっと休息するような感じ。そうすると長い橋掛りでも時間が保てるね。今度の『砧』では考えてみようかな。

明生 『砧』には演出の幅があるからこそ、有意義に生かして、いいものに仕上げていきたいですね。    (つづく)

 

 

『景清』 シテ 粟谷能夫( 撮影 あびこ喜久三)

『砧』 シテ 粟谷明生(撮影 石田 裕)

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