阿吽43 『卒都婆小町』を勤めて   ひねくれ小町だから面白い 粟谷明生

『卒都婆小町』 シテ 粟谷明生(平成30 年3月4日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店 川辺絢哉

『卒都婆小町』 シテ 粟谷明生(平成30 年3月4日 粟谷能の会) 撮影:前島写真店 川辺絢哉

古は絶世の美女、歌に優れ、多くの男性に求愛され、華やかに生きた小野小町が、貧しく醜く、物乞いをするまでに落ちぶれ、百歳の姥になって老残を晒している。そんな小町を描く『卒都婆小町』を、「粟谷菊生十三回忌追善能・粟谷能の会」(平成三十年三月四日、於‥国立能楽堂)で勤めました。父が亡くなって十二年、月日の流れがあまりにも早いと痛感します。父が『卒都婆小町』を披いたのは六十八歳のときでした。老女物は六十歳を過ぎないと手に負えないと言われる程の難曲ですが、私もいつかは挑んでみたいと思い続け、今回、未熟ながらも六十二歳にして、父の追善能で披くことができ、とても喜んでいます。

シテとして初めて老女物に取り組み、一番苦心したのは「老女の謡」です。老女だからと声量を下げて弱く小さな声では客席に届きません。かといって、大声で朗々と謡うわけにもいきません。静御前のような若い女の謡では駄目であり、弁慶のような強い男の謡とも違うのは当然です。

本番前に亀井広忠氏に観世銕之亟先生の老女の謡の教えを尋ねると「弱吟なれど強吟の息遣いで謡う、声を出すのではなく声は肉体の内面に負荷をかけた結果、洩れたもの、と心掛ける、と仰っていました」と教えてくれました。後日「次第、サシコエ、道行は呟くように文字を吐き捨てるように謡うんだとも」と更に教えてくれました。

なるほど、と得心しながらもなかなか難しいものです。私としては、役者自身の心技体の内芯を強く意識することで、柔らかな外面を持つ老婆が浮かび上がるのでは、と思って勤めました。

稽古しながら、小町の栄華と零落、あんなに美しかった人がこんなに落ちぶれて…、かわいそう、哀れ、と単にそれだけを描くために、観阿弥は『卒都婆小町』を戯曲したわけではないだろう、もっと何かがあるのでは、それは何なのかを掘り下げてみたくなりました。

道行が終わり阿倍野松原に着くと、小町は疲れて苦しいと、近くに横たわっている卒都婆に腰かけて休みます。すると、卒都婆は仏体色相のもの(仏の御姿とこの世を形作る五大、地水火風空を表したもの)、そんな大事なものを尻に敷くとは、けしからん、とワキの高野山の僧が咎め、ここからがシテとワキの論争「卒都婆問答」となります。

ワキの咎めに対して、「卒都婆が仏体という謂れは?」「功徳というけれど、卒都婆の功徳って何?」と畳み込むように質問をし、私は「仏体と知っていたから近づいたのだ」「卒都婆も伏しているから私も休んで、何か悪い?」と屁理屈を並べ、ついには「悪も善」「煩悩も菩提」「仏も衆生も隔て無し」「愚痴の凡夫をこそ救ってくれるのが仏では?」と論破する小町です。ついに、高野山の僧に「真に悟れる非人なり」と頭を下げさせ三度礼をさせてしまいます。

卒都婆問答で高野山の僧をやり込める小町は、老いても才気煥発、とても百歳の老婆には見えません。こんな元気な老婆に喝采する人もいるかもしれませんが、私は演じながらふと「こんな性格の老婆が近くにいたらイヤだろうなあ」と思ってしまいました。博学ですが人を小馬鹿にしてしまう性格。傲慢で強い女。父が「こういうタイプが長生きするんだよ」と笑って話していたのを思い出します。

現代社会でも、お年寄りの中にはマイペースで、他人のことはどうでもいい、と振る舞われる方がいます。老々介護をしている人などは、身に染みるのではないでしょうか。ですから能『卒都婆小町』は現代にも十分通じ、決して陳腐なものではないのです。このような普遍的なものを作った観阿弥の戯曲力には感心させられます。

論破された僧は、老婆がただ者ではないと思い、後世を弔うから名を明かせと尋ねます。すると「跡を弔ってくれるなら、恥ずかしいが名乗りましょう」と返答する老婆小町です。稽古していると先ほどまで小馬鹿にした相手に、弔ってくれるならばと、態度を急変させる節操のなさが気になりました。成仏など眼中に無いと言わんばかりの物言いはなんであったのか、老婆の信念はどこにあるのか…と。しかしこれも戯曲としての観阿弥の演出力、人間の弱さを見せたかったのだろう、と思って稽古を重ねました。

シテの名乗りからは、ワキの気持ちを地謡が代弁し、シテと地謡との掛け合いで舞台は進行します。古の栄華と今の境遇の悲惨さをシテは中央に下居して語り合います。背負った袋には垢まみれの衣、破れ蓑、破れ笠、「路頭にさすらひ、往来(ゆきき)の人に物を乞う」乞食になった…と、次第とサシコエで語った栄華と零落をここでまたしつこいほど繰り返すのは、老いることの悲しさ、盛者必衰の理ことわり、人生の無常など、この曲に通底するテーマを作者は言いたかったのかもしれません。

そして地謡が「乞ひ得ぬ時は(誰も施しをしてくれない時は)悪心、また狂乱の心憑きて声変わりけしからず」と謡うと、突然「のう物賜べのう」(ねえ、何か頂戴よ、ねえ)と、僧の前に笠を裏返しに突き出し、なりふり構わず物乞いをする小町に変わります。そして遂に深草少将が小町に憑依し狂乱の体となり、後半へと続きます。

シテは物着で水衣を長絹にかえ、烏帽子を付け、深草少将が憑依した姿となります。ここが演者にとっての難所です。男である演者が、取り憑かれた小町という老婆になり、同時に、取り憑いた深草少将という男の怨念をも、身体一つで表現しなければなりません。「私のところに百夜通ったら付き合ってあげるわ」という小町の揶揄い半分の言葉に、雨の日も風の日も雪深い日も、通い続け九十九日、あと一日というところで力尽きて死んでしまった深草少将。この無念ははかり知れません。その怨霊が、小町が悪心を持つたびに憑依し苦しめます。この作品の狙いは、少将を揶揄い死なせた悪事への報いなのか、はたまた、小町が悪心を持つたびに深草少将が鬼となり懲らしめにやって来る復讐劇とも、また逆に小町の守り神のように現れる、とも解釈出来、様々に想像出来ます。

一曲の最後、地謡が「怨念が憑き添ひて、かやうに物には狂はするぞや」と強く謡うと、一瞬静寂が訪れます。これまで謡い囃していた舞台が静まり返り、空となる瞬間。深草少将が消え、これまでの物語がすべて消え、栄華も滅びも、恨みも喜びも、空となるほんのつかの間。憑依が解け、格好は少将のままながらも元の老婆の小町に戻ったように演じなければ失格で、その気持ちと動きの切り替えが難しく、しかし最大の見せ場となります。

やがて小鼓が打ち出し、地謡が謡い、最後は「花を仏に手向けつつ、悟りの道に入ろうよ」で終曲します。この間の詞章はわずか四行、あまりに急転直下の終わり方です。

さて、ご覧になられた方はどう思われたでしょうか。「悟りの境地に入ろうとしたのね。よかったわ」と思うのか、「う~ん、小町さんは悟るのは難しいかもね」と悲観してしまうか。高野山の僧を論破する小町は宗教の教義をよく心得ていたはずです。自分も悟りの境地にならねばという気持ちの一方で、「でも本当に悟れるかしら」という不安な気持ちもあったかも。いやいやひねくれ小町のことだからそんなに急にお利巧さんになろうとはしないでしょう…などと二転三転します。その多面的な小町の裏の顔を覗かせるのが、作者・観阿弥のねらいだったかもしれません。

現在物の能は、清純で美しく素直でソフトな能よりは、どこか角ばっていてひっかかりがあるものが魅力的です。不思議に現在物の能に惹かれます。『卒都婆小町』の小町も嫌な性格の女だと思う一方で、そのひねくれ小町の複雑な心境が面白く、観阿弥の土臭く劇的、自由奔放な作品構成に惹かれ、遣り甲斐を感じます。能『卒都婆小町』はすべてが面白く、機会があればもう一度演やりたいと思いました。

面は「老女」を使いましたが、ただ優しいお顔の「老女」ではなく、私の演じたい小町は鼻っ柱の強いお婆さんでした。我が家の伝書にも「老女だが痩女が吉」と書かれています。今回は、能面師・石塚シゲミ氏に打っていただきました。今は落ちぶれ老いてはいるがそれなりに昔はきれいだったイメージ、口も達者な表情、と難しい注文をしましたが、自分では納得出来る面と認識し、感謝しています。

初めての老女物、いい時期にお披キが出来た、と思っています。老女物の型は一応決まっていますが、自由に創っていく余白の幅、遊び部分があります。これまで演能された諸先輩もこの余白、遊び部分を自由に創り、進化させてこられました。小町はどういう人物なのか、指導者は教えてくれません。百歳の小町を自分自身で演出し演技しなければならないのです。シテ方能楽師は役者であり演出家です。そこが面白いところで、遣り甲斐もあります。自分で勉強し自分で創るもので、単に習うものではない。習ってもできるものではないのです。これまで培ってきたことを信じ、自分が感じるままに気負いなく自由に、そんな境地で老女物ができれば、と思っています。

今回は、ワキに朋友・森常好氏、囃子方は笛が松田弘之氏、小鼓が大倉源次郎氏、大鼓が亀井広忠氏、地頭にわが師・友枝昭世氏、粟谷能夫には副地頭を勤めてもらいました。素晴らしい師と仲間たちが揃い、私を支えてくださったことに感謝します。父の十三回忌追善能にこのような大曲、老女物を披くことができ、父へのよい手向けになりました。ご覧いただいた方々、支えてくれたスタッフ、すべての方々に感謝したいと思います。

Keiichiro KANEKO